こうして危機管理は、真に必要な備えの言葉であると同時に、放漫財政の免罪符にもなりうる。ここに最大の落とし穴がある。
本来、防衛費でも防災費でも、金額ありきで進めるべきではない。どのような脅威に、どのような戦略で対応し、そのために何がどれだけ必要なのかを積み上げた上で、安定財源をどう確保するかを示すのが筋である。
必要な防衛力を整えることと、財政規律を守ることは本来対立しない。むしろ、平時から財政を傷め続ける国家ほど、有事に持ちこたえる力を失う。真の危機管理とは、危機を口実に借金を増やすことではなく、危機に耐えられる財政基盤を平時から整えておくことなのである。
大きな政府の誘惑
今回の提言の核心は、つなぎ国債を財政指標から事実上切り離し、別枠管理しようという点にある。しかも、こうした別枠管理は今回が初めてではない。なぜ日本では、借金を見えにくくする例外扱いが繰り返し受け入れられるのか。
その理由は単純である。政治が大きな政府を手放せず、国民もまた政府依存をやめられないからである。景気が悪ければ補助金、賃金が伸びなければ支援、投資が足りなければ国費、防衛にも防災にも産業育成にも、何かあればまず政府が前に出る。
震災や感染症を経て、その傾向はさらに強まった。危機のたびに政府の役割は拡大し、その費用は国債という形で将来世代へ送られる。こうして国家の仕事は増え続ける一方で、その負担は見えにくくされる。
この構図の厄介なところは、受益の時点では心地よく見えることである。危機の時に国家が頼りになるべき存在であること自体は確かである。しかし、その当然の期待が平時にまで際限なく拡張されると、大きな政府は必ず世代間の不公平を生む。今の有権者が利益を受け、負担は将来の納税者に先送りされるからである。
復興債もGX経済移行債も、誰も否定しにくい目的を掲げながら、実際には借金による政府の役割拡大を正当化する装置として働いてきた面がある。目的が崇高であればあるほど、財政規律はむしろ厳しく問われなければならない。
つまり、「つなぎ国債」や「危機管理」という言葉遊びの背後にあるのは、大きな政府を続けたい政治と、政府に頼りたい社会が互いに支え合う日本の政治文化そのものなのである。政治は負担の実体を見せたくないから、言葉を変え、別枠を作り、数字から逃げる。その繰り返しが、今日の日本財政をここまで膨張させてきたのである。
