2026年9月12日(土)

オトナの教養 週末の一冊

2026年9月12日

秀吉の甥・秀次、大敗して大目玉

 恒興はこの失点を取り返そうと秀吉に「岡崎城は手薄だから今こそ攻め込むべき」と進言。

 秀吉は一度は速断を避けたが、恒興に押し切られる形で「秀次を大将とせよ」と出撃を命じた。秀次は秀吉の甥、つまり後の「豊臣兄弟」でいえば秀長の血縁筋にも近い存在だ。

 しかし家康はこの動きを事前に察知しており、1万4000の兵で背後から追跡、岡崎城からも出撃させる挟撃作戦に出る。秀次軍が食事のため小休止した隙を突かれ、豊臣軍は総崩れとなった。大将の秀次は馬を捨てて逃走し、後に秀吉から「部下を討死させて、自分だけが逃げるとは何事か」と厳しく叱責されたという。この激戦地が「長久手」だったことから、後世「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるようになった。

「捨て城であるなら拾ってしまおう」という家康の胆力

 この戦いは武力だけでなく情報戦の様相も呈していた。家康方の榊原康政は、禅僧に秀吉の悪口を並べた文章を書かせ、矢につけて敵陣に放つという「矢文」による中傷作戦を仕掛けている。

 「羽柴秀吉は野人の子、どこの馬の骨ともわからない草莱の出である」という一文を読んだ秀吉は、相当に頭にきたと伝わる。兵士の士気を削ぐための心理戦まで駆使する徹底ぶりに、この時代の駆け引きの奥深さが見える。

 『超約版 家康名語録』では、この時期の家康の胆力を示す言葉として、噂だけで城を明け渡すなど考えられない、捨て城であるなら拾ってしまおう、という逸話が紹介されている。

 絶対に人の少ないほうが勝つ、いま石を投げ合ったなら、といった若き日の逸話とも重なる、状況を冷静に見極めてから動く家康らしい思考法だ。小牧・長久手での小牧山即占拠の判断も、この胆力の延長線上にあると見てよいだろう。


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