2024年4月16日(火)

オトナの教養 週末の一冊

2014年10月2日

 このように、従来の父親には、社会的なルールや価値観へと導いていく役割が期待されていました。これが伝統的な父性ですね。しかし、現在のように父親がやさしくなり、母親と同じように子供と接する機会が増えてきた時代ではどうでしょうか。

 理屈としては、社会のルールや価値観の普遍性を認識する力が弱くなりそうですが、心配する必要はありません。社会的なルールや価値観を感じさせる第三者は、必ずしも父親でなくてもよいわけで、たとえば保育園の先生や他の子供たちなども、こうした第三者の役割を担うことが可能だからです。

ーーそのように母性や父性が変化する中で、子育ての本質とは何でしょうか?

山竹:子供はそれぞれ異なった資質を持っているので、同じように育てたとしても、まったく違うように育つことが少なくありません。そのため、統一的な方法論が成り立ちにくく、多様な子育てのマニュアルが出回っているわけですが、これは多くの親にとっては悩みの種でしょう。何が本当に正しい子育てなのか、混乱してしまうからです。

 今回私が書いた本は『子育ての哲学』というタイトルのとおり、マニュアル本ではなく哲学の本です。哲学の営みとは、みんなが納得するような、その事象に共通する意味、つまり本質を取り出すことですから、子育てであれば、誰もが納得する共通の子育ての意味を取り出すことが必要になります。それが子育ての本質というわけです。

 では子育ての本質とはなにかと言えば、それは子供が自由を実感して生きられるようにすることだと思います。子供の幸せを願うのであれば、そう結論せざるを得ないのです。そして、子供が自由を感じられる存在に、つまり「自由な主体」になるためには、「感情の主体」「欲望の主体」「理性の主体」の三つを育てていく必要があります。

 いまの若者たちの中には、比較的自由な社会を生きているにもかかわらず、何をしていいかわからないという人がいます。これは「自由な主体」になっていない、とも言えますが、ではそのような主体に育てるためには、一体何が必要なのでしょうか。

 まず、子供が何かやりたいと言い出したら、すべてをやらせるわけではないけれども、その意見は尊重し、理解を示すことが大切です。そうすると、子供のしたいことはさまざまな方向に拡がり、また自分の欲望にも自覚的になるでしょう。

 しかし、子供のやりたいことを頭ごなしに否定し、摘みとってしまうと、その子は自分がしたいと思うこと自体に否定的になったり、無自覚になり、結果として自分で何をしたいのかわからなくなってしまいます。自分の感情に気づかない、という意味では、「感情の主体」になっていないのです。それでは自由を感じて生きることは出来ません。


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