それから、ずっとあとのことになりますが、1995年ごろ、私は農林中金の角道(かくどう)謙一理事長(元農林次官)にお会いする機会がありました。「下君のことをご存知ですか?」と聞くと、「よく知っている。すごい人物だった」と答えがすぐ返ってきました。
私は、高校時代にこんなに人格も学力も日本一という人物に出会っていたので、「とてもかなわぬ人のマネをしてはならない」という教えを身につけることができました。これがその後の人生でずっと影響しました。亀井君にとってもきっとそうだったのではないかと思うのです。
「上には上があるもの」と悟ったことは、私にとってとてもありがたいことでした。僕も亀井君も、下君にペコペコすることで、すごく豊かな人生になったのではないかと思います。
剛の者、強の者
私の手元に、亀井君の共著本があります。『繁栄のシナリオ』(亀井静香・濤川栄太共著、中経出版)です。2003年の本ですが、そのなかに、こんな記述があります。
中小企業を中心とした下請け会社は何とか要求を満たすために、懸命に技術革新を競い最新機器の導入をやろうとする。が、銀行は、どんなにやむをえない理由を説明しても金を貸してくれません。
――『繁栄のシナリオ』(中経出版)p19
彼は学生の時から、ものすごく目立つ人間でした。彼がモラトリアム法案のことでテレビによく出るようになってから、私のところには、何人もの同窓生から電話が入りました。みんなが彼に注目し、彼の昔の姿を思い出し、同じ世代として応援しています。
ある友人は、高校時代、生徒会の集会で、亀井君がよく台の上にたって演説していた姿を思い出します。「何を言っていたかよく覚えていないが、すごく強い口調で、力のあるメッセージを出していた。彼は、僕らと比べてずっと大人だった。何をも恐れない姿がみんなにすごいと思わせていた。人並み外れたカリスマ性があった。いまから思えば、あれが政治家的資質なんだろう」
亀井君は、大学でも有名人でした。どてらを着こなし、荒縄をしめて、草履をはきならしていたそうです。そのバンカラ姿はとても彼らしく、どこにいても目立つ人でした。
その時代は、学生運動華やかなりし頃ですが、彼はそういう運動には参加していませんでした。むしろ、保守的な人物でした。駒場寮で寝起きし、「向陵会」という旧制高校時代からの伝統を大事にする会に所属して、よく寮歌を歌ってキャンパスを闊歩していました。