本場で一流の評価を得て店を構えている自信が、言葉の端々に感じられる。
「フランスでは、生地を選んでもらって採寸して長くても1時間弱。忙しい方々ですから時間がそんなにもらえない。スピードが大事ですから、プライベートな会話などありません。テーラーの技術だけではなく、どんな美意識をもっていて、それをどう表現できるのかを、培われた審美眼で見抜かれる。いつも力量がテストされているような感じです」
初めて訪れた人は、まだ顧客とはいえない。二度目に来てくれた時から、技術と感性を認められたテーラーと顧客との関係が生まれるが、そこからもまた厳しい目とそれに応え続ける努力が関係を継続する条件になる。
「日本のほうがもう少しウェットですね。言葉で丁寧に説明してわかってもらう。パリでは、テーラーがどうしましょうとお伺いをたてることは自信のなさの表れで、プロだと思われない。日本では、控えめなほうが奥ゆかしくていい関係ができるんでしょうけれど」
ファッションにのめり込む
生まれ育った日本ではなく、風土も、文化も、歴史も、人間性も全く異なるフランスで気の抜けない戦いの日々を送る緊張感は、聞いているだけでしんどそう。だが、鈴木は自らその道を選び、二度と日本には戻らない覚悟で住民票も抜いて渡仏している。
「27歳の時でした。モデリストを目指していたんです」
モデリストは、デザイナーのイメージをデザイン画にして、型紙を作り、縫製して形にしていく。主に既製服の分野で使われる言葉で、当時の目標はオートクチュールでもテーラーでもなかったということだ。
鈴木は、コンプレックスの塊だったと幼少期の自分を振り返る。1歳年上の兄は、児童劇団に所属して引っ張りだこの売れっ子。ハンサムでスポーツ万能、おまけに勉強もできた。その兄にあこがれ、兄と同じ道を必死で追うけれど、兄との差は開くばかり。
「いい思い出はないですね。子ども心に理不尽、不条理を感じていました。ファッションに興味をもったのは高校のころ。ヴィンテージの洋服を扱う地元の店に入り浸っていました」
興味をもったのは、映画で見た1950年代から70年代のファッション。土日には販売員として代官山の洋服店でバイトをした。懸命に勉強して客に接し、売り上げに貢献、ロンドンに買い付けに行ったこともある。兄の後を追うのではなく、初めて自分の道を見つけて歩き出した鈴木は、求めるものに無我夢中で向かっていけば、必ず確かな何かを得られるという感触も、この時期に同時につかんでいたのだろう。