この熱き人々

2015年12月4日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

宝石のように美しく縫う

 フランスで唯一国家資格を取得できるモデリストの専門学校Académie Internationale de Coupe de Paris(A.I.C.P.)に入学した鈴木は、既製服から、世界に一着だけ顧客のために生み出すオーダーメードのテーラリングに魅了されていくことになる。テーラリングの根幹はカッティングの技術であり、目指すのは一流店でのカッター、そしてチーフカッター、さらには独立して店を持つこと。目標が明確になっていくと、同時に立ちはだかる壁も明確になっていった。

パリ八区にある「KENJIRO SUZUKI sur mesure PARIS」

 入学初日の授業後、鈴木は校長に、パリでテーラーとして働くには何をしたらいいのか助言を求めに行った。鈴木が手で作った150種類以上のブートニエール(装飾用ボタンホール)を見て校長は驚いたという。一つ作るのに15分はかかるブートニエールが布の端から端までびっしりと並んでいたのだ。学校での勉強ぶりは鬼気迫るものだった。厳しい競争を外国人が勝ち抜くためには人並みの情熱ではどうにもならない、人並み外れた情熱を示さなければならないことを身に染みて知っていたのだろう。A.I.C.P.を首席で卒業後、パリの有名高級テーラー「カンプス・ドゥ・ルカ」で縫製職人としての仕事を得た。

 「僕が縫いの修業をしたのは、ここでの2年半です。普通は20年かかるといわれているものを凝縮させた時間です。縫いで表現できることはとても多いと思っているので、将来はカッターを希望していると伝えて縫い子として仕事をしていたんです」

 が、カッターへの道は待てども開かれなかった。理由はアジア人だからという。カッターは直接顧客と接し、要望を聞き、生地を選び、採寸して型紙を作って裁断し縫い子に渡す。店の表の顔である。日本人の鈴木がカッターでは、フランス人の客が来なくなるというのだ。技術が不足しているならどんな努力もできるが、日本人であるという人種的な理由ならもはやどうすることもできない。

 失意の鈴木に手を差し伸べてくれたのは、専門学校の校長だった。懸命に鈴木の能力を訴え、電話をかけまくり、ついに校長の教え子が根負けしてパリの老舗テーラー「フランチェスコ・スマルト」のカッターへの道を繋いだ。そして、採用されて1年後、31歳にして35人の職人を率いるアジア人初のチーフカッターとしてその名を刻んだのである。実力で人種差別の壁を乗り越えたわけだが、人種差別そのものが消えたわけではない。

 「出て行けとフランス人の職人にあからさまに言われるし、上からも下からもいじめにあう。白人の中にも序列があるのに、アジア人がトップなんて認めない。本当につらかった。一日も早く独立することだけを考えていましたが、今思うと、自分こそが世界一の職人だと思っている人たちの中でどんな些細なミスも許されないという厳しい環境が、いろいろなことを鍛えてくれたと思います」

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