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興奮していたのだろう。言い知れぬ苛立ち、怒り、無力感が入れ替わりやってきた。人間たちが作り上げたバベルの塔のような巨大なやぐらの上で、足元がグラグラ揺れ、崩れていくような感覚。あるいは、砂漠の嵐の中、ひたすら耐えていると、一陣の風でテントごと吹き飛ばされ、自身が砂のように消えていく感覚。そんな妄想が繰り返し現れた。
これは一体なんなんだ。
職業柄、世界の行方、時代の変化といった大局を一応は考えるが、手元の仕事を淡々とこなしながらも、同時に猛スピードであらゆることを考えた。私はその時、ごく個人的なことを考えた。
「学習障害がある」と校長に厳しく拒絶され、南アフリカの地元の小学校に入れなかった長男は、そうした子供達が集まる学校に通った末、私と帰国したばかりだった。私は彼の学校生活を常に気にしていた。南アでは「メインストリームに乗る」という英語表現をよく使っていたが、彼が普通の学校に馴染むのは難しいと心配していた。テロの翌春には別の国に転勤するのも決まっていた。
当時10歳の長男が外地で思春期を送ったとして、その後、彼はどこに馴染むだろう。米国ならなんとか道が開けるかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えていたころだった。
そのせいか、テロそのものより、私はそれに対する米国の反応、国家の反動を怖れた。
国際情勢の行く末は簡単に想像できた。1998年8月にナイロビで起きたアメリカ大使館爆破事件を取材していたため、その後の米国の動きはだいたい読めた。ブッシュ大統領はテロをアルカイダの犯行と断定し、ほどなくアフガン攻撃を始めるだろう。だが、それよりも私は、米国が国境を閉じ、より閉鎖的になっていくのを恐れた。