考えてみれば、こうした手抜きは大人同士の間でも珍しくない。大人の場合は、手抜きをされたと感じても、『あの人も忙しいから』『偉い人だから』と納得しようとしているだけだ。でも、頭では理解しても気持ちは正直だから、手抜きされたのに相手のことを好きになるなんて人はいないだろう。
大人と子どもの間でも同じ構図なのはわかっているけれど、どうせ子どもだから話してもわからないだろうとか、目上の者の言うことを聞くのが当然だとか、大人はえてして考えがちになる。そんな傲慢さに、『子ども目線』という、まるで子どもに合わせてあげているかのような美名を冠しているのが実態だ。
「5歳の私は75歳の私と同じように賢かったし、5歳の私が他愛ないとすれば75歳の私も同じ他愛なさを持っています。むしろ子どものほうが鋭くて賢いところがあるんですよ」
感受性の強い高見だったから特別だ、というわけではない。一人の人間として見られていないことは、幼稚園児でも本能的に感じるし、小中学生になればなおさらだということだ。そんな中では相手を信用しようという気持ちは生まれないと高見は言う。
後ろめたいのに
本気で叱ってもらえないのは、
寂しいんです
「おチビさんに嘘はつきません。私が家で原稿を書いている時、近所の幼稚園児が遊びに来ることがあります。そんな時は居留守を使わず、『今日、おじちゃんはお仕事です。お仕事をしないとご飯が食べられないんです。申し訳ありませんが、今日は帰っていただけませんか』と事情を説明します」
「おチビさんにも、私が切実に何かの事情を話していることはわかります。幼稚園児でも十分に賢いですから。だから、どんなに説明しても帰らない子どもには、『これだけ説明しているのに、何だ、この野郎!』って本気で怒鳴り始めます。途中で、私も少し恥ずかしくなるんですけどね」
その子とは、それからどうなりましたか?
「彼もね、自分に非があることがわかっていますから、後ろめたいんですよ。それなのに本気で叱ってもらえないのは、寂しいんです。その時はギャーと泣きますが、機嫌が直ればまた遊びに来ますよ。私に裏切られたって思わないですから」
「子どもは、まともにかかわってくれる大人とは友達でいられるんです」と高見は言う。「初対面の3、4歳の子に『恐れ入りますが、あなたのお名前を聞かせていただけないでしょうか』って、最上位の礼儀を尽くして尋ねます。たいていの子は、泣き声まじりで、死にものぐるいで答えてくれますよ。一生懸命に接してもらえたら、一生懸命に返そうとするものです。友達って、そうやってなるものでしょう?」