2024年11月22日(金)

オトナの教養 週末の一冊

2016年4月24日

 第二章から四章は、散骨を選ぶ自由を求める人々の運動を中心に、変貌する「死者の送り方」の現状、さらに遺体のさまざまな利用法(解剖実習の教材、外科手術の練習台、展示標本、交通事故被害の実験体など)、葬送の自由を国民の権利として法律で認めさせることの是非について考える。

 散骨を認めるなど、葬送や墓について細かい法律があるフランスを例に挙げ、立法の背景にさかのぼって、日本の明治維新以来の葬送に関する政策と比べた点は、非常に興味深い。

 「死後のあり方も国が面倒をみるべきなのか、法律をつくることが人々の求める自由をほんとうに保証することになるのかどうか」

自分と送る者と国との関わり

 こうした視点に立ち、著者は「自分と送る者と国との関わり」の望ましい姿を問いかける。

 <葬送の自由は、死んでいく者個人の自己決定権ではなく、死んでいく者と葬送を行う残された者たちとの人間関係を単位としたプライバシー権として認められるとするのがいいと思う。(中略)誰が葬送を行う立場の者になるのかはケースバイケースで、必ずしも家族、親族に限らないとするのが妥当だと思う。>

 <このように考えた葬送の自由が社会のなかで認められる条件は、生きているうちに、自分と葬送を行う立場になる人との間で、どうしたいかきちんと話し合いを重ね、双方が納得し合意できるやり方を決めておくこと、というのに尽きると思う。自己決定権ではなくいわば共同の決定権だから、遺言や法律で、望むとおりの葬送を行うのを残された者に義務づける権利は認められない。>

 葬送のあり方について共同の意思決定を促し助けるために、情報提供と相談支援の場をつくれるといい、とも提案する。賛成である。

 「流行の『終活』が、個人の覚え書きや一方的な遺言の代わりをつくって終わりになるのではなく、そうした方向に発展していくことを望みたい」。そう著者が結論するように、本書を読んで、まずは大切な人たちと話し合うことから始めたい。


  
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