又浅野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが越度なり。又主を討たせて、敵を討つ事延々なり。もしその内に吉良殿病死の時は残念千萬なり。上方衆は知慧かしこき故、褒めらるる仕様は上手なれども、長崎喧嘩の様に無分別にすることはならぬなり。又曾我殿夜討も殊の外の延引、幕の紋見物の時、祐成圖を迦したり。不運の事なり。五郎申し様見事なり。
總じて斯様の批判はせぬものなれども、これも武道の吟味なれば申すなり。
前方に吟味して置かねば、行き當りて分別出来合はざる故、大方恥になり候。咄を聞き覺え、物の本を見るも、兼ての覚悟の為なり。就中、武道は今日の事も知らずと思うて、日々夜々に箇絛を立てて吟味すべき事なり。時の行掛りにて勝負はあるべし。恥をかかぬ仕様は別なり。死ぬ迄なり。その場に叶はずば打返しなり。これには智慧業も入らざるなり。曲者といふは勝負を考へず、無二無三に死狂ひするばかりなり。これにて夢覚むるなり。
赤穂浪士討ち入りの話は、たいていの人は知っているであろう。長崎喧嘩の方はなじみがない。これは元禄12年(1699)12月20日、赤穂浪士討ち入りの3年前の事件で、大石良雄はこれを参考にしたといわれている。
佐賀藩家老の深堀官左衛門茂久の家来深堀三右衛門、志波原〔しなみはら〕武右衛門の両名が、長崎町年寄高木彦右衛門の中間惣内〔そうない〕と街中で出会い雪解けのしぶきが掛かった。そのことから口論となり、二人は惣内をなぐった。惣内は「覚えていろ、仕返しに来るからここを動くな」といい捨てて帰った。両人はいくら待っても来ないので引きあげてしまった。すると、その夜、高木の家来が10人ほど深堀屋敷へ押しかけ、二人を袋だたきにした上、刀まで奪って帰った。多勢に無勢で敗北した二人は、急を聞いて駆けつけた三右衛門の子嘉右衛門(16歳)とその下人の四名で高木邸を襲った。しかし、門を開けないので夜明けを待っているうちに子弟・同僚十数人が駆けつけ、東の空が白むと同時に門番を切り倒して乱入した。そして彦右衛門、惣内ほか家来多数を切り殺した。その後、火の用心をした上、深堀三右衛門はその場で、志波原武右衛門は高木邸門前の橋の上で切腹した。この事件が江戸に聞こえ、10名は切腹、九名は遠島などの処罰をされた。
これは当時としては大変ショッキングな事件で、いろいろな評価がされた。常朝にとっては、2日間ですべてが決着ついたところに武士道の精神をみたのであろう。つまり、武士の生き方の問題としてとらえたのである。赤穂浪士の討ち入りは、元禄14年3月14日から翌15年12月14日までの満1年9カ月かかっている。これではものたりなかったのであろう。「武士道においてはこのような批評をしてはならないのであるが」といっているところをみると、赤穂浪士を全面否定しているのではない。「武士道を考える」にあたって、その行動哲学を問題にしているのである。つまり、凡人にあっては、「時がたち結局やめようではないか」ということになりやすいことへの警告である。大石良雄であったから、あのようにできたが、普通の人には無理である。だから思いたったらすぐに行動に移す、というのがここの考え方である。
行動に出るということは、多くの危険を伴う。それは現実と真正面に対決することであるからである。これには大変な勇気が要求される。この勇気を支えるものは何かというと、「死に狂い」である。いうなれば、自己を捨てることが「死に狂い」の哲学である。これはほんとうに死ぬことではなくて、最もよく生きる一つの考え方である。
この考え方は、物のあふれすぎた現代にも通用するはずである。
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