「父は藝大(東京藝術大学)を出た画家なんですが、弟のためにすべてを捨てている感じだった。何でもっと世間から評価される有名な画家になろうとしないのか、子ども心にとても不満でした。父との距離は広がっていきました。でも両親は僕に対して後ろめたいところもあったようで、欲しい物は何でも買ってくれる。30代まで『車が欲しい』と言えば『いくら必要なの?』って感じで、ポンと出してくれる有様でしたから」
高校を卒業した多田は、フランスに向かった。日本の料理学校ではなくル・コルドン・ブルー・パリを目指した。必死にフランス語を勉強し、懸命に料理を学び、学校からの推薦でパリの超一流店で修業もできた。
「官僚みたいな経歴ですよね。日本人でパリにやってきたコックの多くは、本当に生活に苦労しながら修業しているのに、僕は親の金で生活の苦労はない。イヤな奴ですよね」
5年間パリで頑張って、23歳で帰国。「ル・コルドン・ブルー・パリ東京校」の開校にともない講師に就任。その後、目黒雅叙園、タイユバン・ロブション、パークハイアット東京などでシェフとして腕を振るっている。華やかな経歴である。
「人間関係では苦労しました。フランスではこうでしたとかつい言っちゃうし、パリの三ツ星のレストランで仕事していたプライドが顔を出しちゃうし。要は生意気だったんです。でも、何か疲れてきちゃって」
つまり、いろいろな意味で仕事が楽しめなくなっていたということなのだろう。まさにそんな心の隙間を突くように多田に転職の話が持ち上がった。たまたまドイツ大使館に料理長と一緒にケータリングに行った時、英語とフランス語でレシピが書ける多田にドイツの厨房機器メーカーから、先進的料理機器を使ったメニュー開発やプレゼンテーション、調理指導などを職務とするアプリケーション・シェフとして来てほしいと請われたのだ。
「面白そうだなと思ったんです。上司がいないし、ひとりで仕事をすればいいから人間関係で悩むこともない。給料もずっとよかったし。でも3カ月ぐらいでイヤになって。辞めようかと考えていた時に、浜松の病院に行くことになったんです」
800床の大病院が厨房機器を導入してくれることになって、月に2回、使い方やメニューの指導に出向くことになった多田は、その病院の栄養科長だった管理栄養士の金谷(かなや)節子と出会った。さっさと仕事を終えて早く東京に帰ることばかり考えている多田に、金谷は「もう一つやってほしいことがある」と言った。ホスピスに入院している末期がんの患者さんが桃を食べたがっているけれど、もう食べる力がない。多田の技術で桃を食べさせてあげてと言う。