「ゼラチンを買ってきて、桃を潰して桃のゼリーを作ったんです。患者さんご本人も奥様も涙を流して喜んでくれて。自分はこんなに喜んでもらえることをしたのか、これまでこんなに感動してもらったことないなって、何か自分もうれしくなって。そのとき金谷さんに嚥下食を考えてみないかと勧められ、何万人もあなたの技術で救えるわよと言われたけど、嚥下食という字も書けないし、当時は意味もよくわからなかった」
この出来事は、料理と多田との現在の関係の礎になったのだろう。辞めようと思っていた会社にその後7年間勤務して、金谷との協力関係はずっと続き、いまも人生の師と尊敬しているという。
竹川病院の調理士たちに指導する
シェフとしてどう生きるか
7年間のアプリケーション・シェフを経て、多田は輝くオーナーシェフの道を選び、東京・麻布に「ユリス麻布十番」をオープンさせた。大きな夢を捨てた父親への反発が、地道に生きる道を選ばせなかった。以前同じ店にいた知り合いがシェフとして料理雑誌で脚光を浴びている姿に心が騒いだこともあった。けれども、掴んだはずの有名シェフの道は多田に幸せを与えてはくれなかった。料理を提供する楽しさより経営の苦労が勝り、いつしか大きな仕事ばかりを追い求めるようになっていた。ランチを楽しみに来店する人が面倒な存在に思えてくる。百万円単位の客への営業に出向く自分がいる。さらに詐欺の被害にあって、裁判まで抱えるようになっていた。
「しだいに自分が何を求めているのかわけがわからなくなってしまって、ボロボロになって店を閉めました。本当に自分の足で立って生きるということに、そこで初めて直面したのかもしれませんね」