「ほかのものが書けないので収入がないというのも苦しかったけれど、しだいに外に出たくなくなり、笑えなくなりました。親しい人の結婚式に呼ばれてもおめでとうと言うことができないので欠席する。それが虐待された子が抱えている世界なら、それを引き受けない限りこの作品は書けないと思ったんです」
父親から性的虐待を受けた女の子や母親からネグレクトされた男の子の気持ちをイマジネーションの中でつかむために、真っ暗な部屋にこもって目を閉じる。真っ暗な中で湧き上がる言葉をノートに書きなぐる。それを作家・天童荒太として読み直す。この作業を繰り返す。徐々に3人の子になりきっていく姿は鬼気迫るものがあっただろう。
「エンターテインメントとして書き始めたんですが、それでは届かないと気づいた。あの子たちの気持ちになりきらないと、虐待された子を作品のために、エンターテインメントのために利用していることになってしまう。自分の中にいる3人の子を含めて納得できるものを出さないと、それまでの自分の年月がすべて消えてしまうとまで思うようになっていましたね」
そして「生きていいんだよ」という結末にともに辿り着いて脱稿できた時は、心身ともに疲れ果てながら安堵を感じたという。
「これを書ききれたことで、天童荒太として小説家になった運命に対して証し立てができたという安堵感かな」
まるで登場人物たちと刺し違えるような壮絶な関わりの末に完成させた作品が、作家を新たな境地に連れていった。そこに立った天童は、読者から届けられた5000通以上の手紙によって、『永遠の仔』の前に書いた『家族狩り』を大幅に改訂するというミッションを自らに課した。
すでに賞を得て評価が確定した作品を大幅に書き直すというのは、新作を書き下ろすよりも体力がいる。つらい人を描き、その人たちへのアンサーがないままでは、その人たちを悲しませるだけになってしまう。本当につらい世界をぎりぎりのところで肯定しうるものとして捉え直す。「生きていいんだよ」という結論に辿り着いた作家にとっては、避けて通れない使命だったのだろう。
映画から小説の世界へ
小説家の苦悩と達成感、使命感、高揚感とはかくなるものなのか……と思う。自身の内への小説家の証し立ては、読者へも強烈な作家像を与える。が、天童の口から意外な言葉を聞いた。
「小説家になれるなんてこれっぽっちも思ってなかったんですよね。映画が好きで好きでたまらなくて、高校1年からシナリオを書いてました」