現代の家族が抱える問題や悲劇、痛みを抱えて生きる生身の人間を描き、社会のあり方を問い続けてきた。自らの命を削るように紡ぎ出す物語は人が現実と向き合い生きるための希望への道筋を照らし出す。
子ども用の小さな椅子の並ぶ部屋の窓辺から庭に目をやる天童荒太を、ちょっと離れたところで眺める。その佇(たたず)まいは穏やかなのに気軽には近づけないのは、『家族狩り』『永遠の仔』『悼(いた)む人』など天童作品のもつ重さと深さのせいなのか。かつて子どもの心を育てる理想の教育を目指して設立された学校だったこの場所で、崩壊した家族や虐待された子どもたちの壮大な魂の物語を生み出した天童は何を思っているのだろうと想像してしまう。
天童は、寡作にして長編、大作の作家というイメージがある。読み進むうちに息苦しくなって思わず本を伏せたくなるが、同時にそれを許さない強い何かに引っ張られて、気がつくと読了している。
2008年に直木賞を受賞した『悼む人』を書いたきっかけを天童は、01年の9・11のテロで奪われた命とその年の10月7日から始まる報復攻撃で失われた命は十分にそして軽重なく公平に悼まれたのかという疑問だったと語っていた。そして11年3月11日の東日本大震災から5年目の今年、天童は『ムーンナイト・ダイバー』を世に出した。以前、確か震災をテーマに書くつもりはないと言っていた。書くつもりがなかったけれど、書こうと思う理由ができた。読者としては、それをどこかで待っていたような気がする。
「当初は事実を伝えることが大事で、そこから今後生きていく道の真実を伝えるのは、小説のように嘘から真実を描く表現ではなくドキュメンタリーや報道やノンフィクションの仕事だという思いが強かったんです。でも、これまでの我々の在り方への警鐘として捉えようという見方はいつの間にか消えてしまって、今は3・11前と同じか、それ以上に経済優先で競争、格差の社会になっている」
被災地に心を寄せ、つながろうとか絆という言葉が日本中にあふれていたはずなのに、時間とともに風化していって、3月11日にだけ言い訳のように思い出す。忘れてしまっているようにも、忘れたがっているようにもみえる。なぜそうなってしまったのか。