ところで、読者の皆さまは〝びた一文〟という慣用句をご存じだろう。これは鐚銭(びたせん)といってすり減ったり欠けたりした粗悪な銭のことをいう。信長は上洛後に正親町(おおぎまち)天皇の子・誠仁(さねひと)親王の元服(成人式)費用として300貫の銭を献上するのだが、これが「一向鐚物(いっこうびたもの)」、つまり全部鐚銭で、額面では300貫でもその兌換価値は数分の一しかない、という代物だったのだ。
いかに信長の懐具合が逼迫していたか。強引な集金も、堺・大津・草津への代官送り込みも、すべて資金繰りのショート寸前に陥っていた信長が背に腹代えられずにとった手段だったといえる。
こうして上洛にともなう痛い出費を辛うじて乗り切った信長は、永禄12年3月16日、京に条例を発する。7カ条ある条文は銭の使用に関するものだが、第1条の付則にこう記されていた。
「金10両は銭15貫、銀10両は銭2貫とする」
彼は金銀と銭の交換レートを定めたのだ。金1両=銀7・5両=銭1・5貫という比率になる。
これによって高額の取引を円滑にし、商業活動を活発化させようという狙いがあったとされている政策だが、果たして信長の意図はそこだけだったか、と言われるとこれもなかなか一面的な話ではなさそうだ。
というのも、信長はこの5カ月後の8月1日、但馬国(現在の兵庫県北部)へ2万人の兵を攻め込ませ、生野銀山を支配下に置いているからだ。当然、金銀と銭の交換レートを定めた時点で信長のタイムテーブルには但馬進攻があっただろうから、彼の頭のなかでこのふたつは連動していたに違いない。
そこで、この交換レート設定前の相場を見てみよう。永禄11年8月、京では銭3貫に対し銀子2枚(これは銀20両にあたる)。金1両=銀10両=銭1・5貫となり、信長のレートに比べると、〝金安銀高銭安〟なのがお分かりいただけるだろう。
なぜ信長は銀だけを高く設定したのだろう?