2024年11月22日(金)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2016年10月7日

 アマチュア球界では常にトップを走ってきた田中であったが、プロ野球という世界は、そこにいる全ての人間がかつてそうであった者の集まりである。身長165センチという体で戦っていくには、自ら生きていく道を探さざるを得なかった。

 「自分のポジションは何だろうって、勝手に判断し始めたことが、自分の成長を止めたと思う。代走でも、守備固めでもいいから、一軍にいたかったからね」

 入団当時の横浜は、前年に38年ぶりの日本一を達成したばかりで、レギュラーはおろか、控え選手も全て、脂が乗った全盛期。1軍メンバーに入ることさえ、至難の業(わざ)であった。何とか生きる道を探そうとすることは、必然だったのかもしれない。しかし、そんな状況でも、高卒ルーキーながら1軍に食い込んでいく。3年目には112試合に出場し、チーム内での存在感も強まっていった。

 4年目。田中を取り巻く環境が、少しずつ変化し始めた。監督が代わり、起用方針が変更。田中は2軍にいる時間が長くなった。

 「仕事の場を奪われる恐怖と、なぜ自分が試合に出られないのかという感情が混ざって、心が荒れていった」

 やる気とは裏腹に、試合には起用されない現状を変えられずにいた。モチベーションをどこにおいて良いか分からず、不満をぶつける機会さえ与えられず、ただただもがき苦しんだ。

 「当時は若くてイケイケだったからね。人の話も聞けず、ただ不貞腐れていた。でもね、今ならわかるよ。そんな人間、ますます試合に出れねぇじゃんって」

進路に大きく影響を与えた桑田と松坂

 プロ入りして7年が経った。田中は変わらず、2軍にいた。9月、ジャイアンツ球場で行われた2軍の最終戦後、球団職員が田中の名前を呼んだ。

 「え、まさか、俺じゃないでしょ」

 戦力外通告だった─。

 「頭がね、真っ白、いや、真っ黒、いや、分からない。もう、なんにも覚えていない。とにかく、ショックだった」

 野球は田中の全てだった。ひとまずトライアウトを受ける準備はしたが、気持ちを切り替えることは不可能だった。そんなころ、野球界では大きなニュースが世間の注目を集めていた。松坂大輔と桑田真澄のメジャー挑戦である。かつて対戦した怪物と、PL学園の先輩でもある大投手が、アメリカ行きを決めた。

 「桑田さんに相談してね。そしたら、『野球ができるうちに、野球をやりなさい』って。なんの根拠もないけど、アメリカに行こうって決めた」

 翌2007年、スプリングトレーニングを経て、独立リーグのアトランティックリーグでプレーすることとなった。独立リーグといえど、そこはメジャーリーガーの卵がひしめくハイレベルなリーグ。田中はそこで初めて、自分より足の速い選手と出会った。

 「どう頑張ったって勝てないような選手が、うじゃうじゃいた。でも、それはとても刺激的だった」


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