2024年12月5日(木)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2016年9月5日

 「スーパーカートリオ」。1985年、高木豊、加藤博一、屋鋪要の俊足3人を打線に並べ、その機動力を武器に塁上をかき回す彼らを、当時の横浜大洋ホエールズの近藤貞雄監督がそう命名した。

屋舗の闘争心に火をつけた盗塁王・高橋慶彦の発言

屋鋪 要 (Kaname Yashiki)
  1959年生まれ。兵庫県の三田学園高校から1977年のドラフト6位で大洋ホエールズに入団。1年目から1軍の試合に出場。盗塁王3回を含む通算327盗塁、ゴールデングラブ賞5回と、走塁と守備の選手というイメージが強いが、85年には15本塁打を記録するなど、パンチ力も兼ね備えていた。93年オフに自由契約となり、読売ジャイアンツへ移籍。移籍1年目に初のリーグ優勝と日本一を経験。95年オフに戦力外通告を受けて引退。その後は、プロ野球や大学のコーチ、野球教室などで野球を教える傍ら、趣味であるSL撮影に熱中した。写真集を出版するほか、鉄道雑誌に連載コラムをもつなど、鉄道ファンとしても一躍有名になった。
(写真・Naonori Kohira)

 この年、この3人で記録した盗塁は148個。それぞれが40個以上の盗塁を決め、1チームで3人以上が40盗塁を記録したことは、プロ野球史上でもこの一度だけである。屋鋪はそのなかでもとりわけ足が速かった。この年、屋鋪の盗塁数は58個。しかし、盗塁王は73個の盗塁を決めた広島東洋カープの高橋慶彦。盗塁王こそ逃したものの、スーパーカートリオはそのネーミングに加え、時代の流れにも乗り、プロ野球界に歴史をつくった。そんな、波に乗っているシーズンオフの、ある日の出来事だった。

 「屋鋪は、まだまだだね」

 たまたまつけたテレビから聞こえてきた声。その主は高橋慶彦だった。

 「元々ね、俺は盗塁にそこまで興味がなかった。でもこの言葉で、絶対に負けたくないって燃えたよね」

 屋鋪は勝つためにあらゆる研究をした。スタートを切るときのフォーム、スライディング、そして相手投手のクセ。やると決めたら、やりぬく。屋鋪は、86年から88年まで、3年連続で盗塁王を獲得した。

 兵庫県川西市。屋鋪の野球人生はここから始まった。小学校4年生から高校に入るまで、ポジションはずっとキャッチャーで、外野手となったのは高校に入ってからのことだった。

 それでも、後にプロ野球で代名詞となる守備力と盗塁には全く興味がなかったという。

 「遠くに飛ばすことしか考えていなかった。そのために体をデカくしたくて、1日6食食べていた」

長距離砲目指した屋舗が感じたプロの壁

 その甲斐あってか、身長は1年で8センチ伸び、ホームランの飛距離がプロのスカウトの目に留まるほどに力をつけた。屋鋪はドラフト6位で横浜大洋ホエールズから指名を受けた。

 「バッティングで生きて行く」そう心に誓って入団した屋鋪であったが、いきなりプロのレベルを目の当たりにすることとなる。


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