2024年11月21日(木)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2016年9月5日

 「田代さんや松原さんのバッティングを見てさ、これは絶対に勝てないって思っちゃったね」

 決して通用しないわけではない。しかし、その道を究(きわ)めていくには、あまりにも土俵が違うことに気づかされた。それでも、屋鋪には超一流の足と肩の強さがあった。

 「お前、足が速いんだし、左でも打ってみたらどうだ?」

 2年目の屋鋪に、当時の監督であった別当薫が声をかけた。ホームランバッターに憧れてプロ入りしたが、生きて行く道がそこにないことを悟った屋鋪は、すぐさま路線を変更した。

 「自分に合っていないことをやるのは、時間の無駄だから」

 やると決めたらやりぬく男である。「俺ほど練習したやつは、後にも先にもいないだろう」と語るほど、猛練習の日々が始まった。

 試合前にもかかわらず、打ち込みは500球を超え、年末年始もなく練習に明け暮れた。同じ頃、日本体育大学陸上10種競技出身のトレーニングコーチに走り方を教わり、スタートの形や一歩目の幅など、専門的なトレーニングを行った。

 「どんどん走るのが速くなって、生まれて初めて盗塁に興味を持った」

 以来、長い距離を走ることには一切目もくれず、短距離のダッシュを繰り返した。「時間の無駄」という自らの哲学を貫き、屋鋪は盗塁という武器を確かなものとした。

 「グラウンドの硬さに、耐えきれなかったんだろう」

 92年に左膝を手術。チーム名が横浜ベイスターズに変わったころから、パフォーマンスは少しずつ落ちていった。93年、今度は右膝を手術し、その傷も癒えぬシーズンオフ、契約交渉の場に着いた。

 「FA権を持っていた当時、行使するしないの基準が球界全体で曖昧だった。そのいざこざでもつれて、自ら『自由契約にしてくれ』と申し入れた」

 横浜一筋16年。スーパーカートリオの屋鋪は、横浜を退団した。その後読売ジャイアンツに移籍。1年目は優勝に貢献するも、2年目に球団から戦力外通告を受けた。プロ18年、屋鋪のプロ野球人生は幕を閉じた。


新着記事

»もっと見る