いまの私が、本の執筆や講演の依頼をいただけるのは、30代のときに2人の方に出会い、憧れ、ずーっと今までお二人に肖りたいと願ったからです。いくらその方たちに近づこうと真似をしてもとても追いつけないことは自分でもわかります。できすぎる人の真似をしたり、できる人のように自分も振る舞っていいと思いこむのは危険であると思っています。
しかし、真似をしようとする気持ちを、ちょっと方向を変えて、“あの人に憧れ、あの人に肖りたい”という気持ちにもっていくのはよいことだと思います。そうすれば、大きなストレスを抱え込む危険から逃れられるし、自分に分相応の無理ない努力をこつこつと続けることができます。
かなわない人物に出会えた幸せ
その点、亀井君を含めたわたしたち都立大泉高校の同窓生(7期)は、下壮而(しも・そうじ)君という、とてつもなく“できる”友人との出会いという幸せを共有しています。とてもかなわない同い年の人間に出会い、人生の早い段階で、「真似するのではなく、憧れ、肖りたいと思う」ことの大事さを知ったのです。
ちょっと脇道にそれます。都立大泉高校の1年と3年のときの同級生K・Hさんから思い出話の電話をもらいました。
「下クンは、金児クンのいうとおり、たしかに人柄・識見・学力と三拍子そろった、近寄りがたい、できすぎた人よね。でも、私たち女子学生は、今でいうガールフレンドをつくる気もなく、女子に興味も示さないデクノボウのような人だわね、と話していたのよ。
大泉高校の3年間(1952~55年)はもとより、その後50年間、下クンのこのような話題は消えることはなかったんだけど、一昨年の3年D組の同級会のときに、下クンが“デクノボウ”ではなかったことが突然わかり、女子たちは大いに安心したんです。
青春時代の下クンは、M子さんに懸想(けそう)し、デートに誘うというモーションをかけていたのだそうよ。50数年経って初めて、下クンが人間として普通の人であることを確認できて、なんともいえない安堵感を味わいました」
これほど下君の存在感は大きく、都立大泉高校では今でも「下壮而さんの前に下さんなし、後にも下さんなし」と言われているそうです。
Kさんによれば、亀井君は「高3のとき、女子率が高くて美形が多かったA組で、キョロキョロしていたはず」だそうです。そんな亀井君も、下君には一目も二目も置いて、頼りにしていたと思います。亀井君は1979年に代議士に初当選しますが、その4年後の83年、下君は46歳の若さで脳内出血によって亡くなりました。亀井君を含む、それはそれは多数の同窓生が、大器・下壮而君の通夜、葬儀・告別式に、言葉では説明できないほどの沈痛な表情で立ち尽くしていました。
話を戻します。私が30代のときに出会った、「憧れ、肖りたいと思った」お二人とは、小尾毅(おび・つよし)氏と田中角栄氏です。