北海道硫黄という中小企業の経理課長だった小尾さんには、20年にわたって百回以上、「経理・財務」を教えていただきました。大政治家の卵だった田中さんには1回だけ、たった3秒お会いしました。その後、講演や講義のときの話し方や、執筆の際の心の入れ方を学ぶキッカケとなりました。
第6、18回でふれましたが、私は信越化学に入社してすぐ、従業員7人の信越協同建設(株)へ出向しました。プレハブ一坪小屋の部材セットとコンクリートブロックと割りぐり石を小型トラックに乗せ、関東一円の金物屋と農協に売って回りました。売れば売るほど赤字の会社でした(数年後、発展的にいまの信越アステック(株)になりましたが)。
1865年に私は信越化学の経理部員に異動となりましたが、年齢30で「経理・財務」の知識と処理能力はほぼゼロでした。
学生時代に農業簿記を磯辺秀俊教授に習いましたが、からきしわからず、試験はただ暗記するだけで、なんとか単位はとれましたが、これでは、「経理・財務」のスタートラインにも立てませんでした。
私を変えた2つのネオンサイン
30歳のある日、京浜東北線の王子駅から、ネオンサインを見たことを思い出しました。それは2つの専門学校のものでした。
私は、その1つ、王子経理専門学校の門をたたきました。そこで私は、立教大学出身の小尾毅さんに、初級の簿記・所得税を教えてもらいました。その「わかりやすい教え方」のすばらしさに、胸を強く打たれ、大いに憧れました。
小尾さんは言いました。「私の勤めている会社は近く倒産する。私は会社員を続けずに、憧れの“人を育てる大学教員”になりたい。いつの日か学者として本を書きたい。金児君も勉強して経理の本を書きなさい」。そして、こうも言いました。「勉強の仕方やり方は、お金を出せば誰でも行ける、中央大学の経理研究所・高等経理科に行って講義を受けるのがいいですよ。お金を使うことは大事です」。
その後、小尾さんは、大東文化大学の非常勤講師から始め、55歳で経営学の教授になられました。残念ながら、小尾さんは59歳で亡くなられました。その間、私は小尾さんのひとことひとことを聞き逃すまいとしました。中小企業の志ある経理課長のお考えと実行力に、会社経営の神髄をいつも見ていたのです。私はいまも、小尾さんに肖りたいと思っています。
(日本実業出版社)
私はあるとき、小尾さんに、「日本実業出版社の月刊『企業実務』に、法人税の実務について連載してみないか」と言われました。私はそんなことは一度も考えたこともなかったので、「とてもそんなことはできません」と言いましたが、小尾さんは「無理になったら途中でやめてもいいし、やるだけやってみたら?」と言ってくださいました。結局、この連載が、私の初めての単著『法人税実務マニュアル』(日本実業出版社) になりました。この人に出会っていなければ、私が本を書くことは絶対になかったと断言できます。
私が王子駅でみたネオンサインのもう1つは、中央工学校です。田中角栄さんが二級建築士になるために通った学校として有名です。