2024年11月22日(金)

幕末の若きサムライが見た中国

2017年1月7日

 彼らより後の時代、「狭い日本に住み飽きた」などと意気揚々と大陸雄飛を謳いあげた若者たちがいた。だが、「苟モ遠ク絶域ノ地ニ赴クニハソノ地理風土ヲ聞キ知リ第一時候ヲ考へザレバ、カクノゴトキ大難ニ逢フ」との納富の冷静な判断に接すると、幕末の若者の方が、後の世の大陸雄飛青年に較べ数段も合理的だったといわざるをえない。それはまた日清、日露の両戦争、ことに日露戦争勝利後にみられた日本の野放図なまでに拡大した大陸政策に通ずるものがあるようにも思える。

日本人の来訪は幸い

 街を「徘徊」すると、必ず彼らの周囲に人だかりができる。彼らが進めば、進む方向に人だかりが動き、彼らを指さし喧々諤諤の議論が続き、まるで耳をつんざくばかり。初めて目にする武士のいでたち――チョン髷に袴、腰には日本刀――に奇異の目を向けたからだろうと思いきや、そうでなかった。

 じつは上海統治の責任を担う道台の呉氏の依頼に応え、「長毛賊ヲ討伐ノ為メ」に日本が派遣した大艦隊が、ほどなく上海港を埋め尽くすとの噂が千歳丸到着前から流れていた。そこで人々は、上海の街を散策する武士の一行を日本からの援兵の先遣隊と勘違いし、彼らを遠巻きに観察していたというわけだ。

 この噂がまことしやかに流れた背景には、貧弱極まりない自国軍隊の力では上海郊外にまで迫って来た「長毛賊」、つまり太平天国軍の猛攻は防ぎきれないという不安感があったはずだ。なかには「今般東洋人来リシハ吾朝ノ大ヒナル幸ヒナリ」と口にする者もいたという。たとえ根も葉もない噂であったにせよ、中国人が「東洋人(にほんじん)」の援兵を「吾朝ノ大ヒナル幸ヒナリ」と大歓迎していたわけだから、この時から現在までの160年に近い日中関係を大きく左右することになるに反日という感情は、当時の中国人にはなかったということだろう。

 それもそうだ。当時、日本と清国との間で利害が対立するような外交上の懸案は生じていなかったわけだから。


編集部おすすめの関連記事

新着記事

»もっと見る