ポケモンの始まりは『ポケットモンスター 赤・緑』というゲームソフトで1996年に発売されました。しばらくしてテレビアニメが始まり、ポケモンカードゲームができて、映画もやろう、と。世界的な盛り上がりにも繋がりました。
『ポケットモンスター ハートゴールド』
こういう流れの中、自分的には、『赤・緑』の次、1999年に発売されたゲームソフト『ポケットモンスター 金・銀』という、ある意味、ポケモンとしては究極だと思っていたソフトをプロデュースできたら、それで一区切りかな、と思っていたんです。自分の仕事はそこまでで終わりかな、とね。そこが自分のゴールでした。
逆に言うとそこまでは、このゲームを開発した田尻智(たじり・さとし)(1)さん、それに彼のチームと苦楽をともにして、立派な製品を出そうという責任を感じていましたし、強いモチベーションをもっていた。なんとかこの『金・銀』を世界中で楽しんでもらえるものにして、成功させたいという気持ちでした。
でもその後は、あまり続けていくイメージは…(笑)。浜野さんが言われたように、もっとほかにも何かあるんじゃないか、いろんなことができそうだなと思っていました。
見えてくる、やってみたくなる
司会 ところが『金・銀』をお出しになったら…。
石原 またポケモンを素材にあんなことやこんなこと、違う方向でこんなこと、と、いろいろやれそうなアイデアが浮かんできたんですね。どんどんどんどん、尽きないで。見えてくる、なくならない、やってみたくなる、というような感じで。
きっともうこれ以上やりたくない、あるいは、自分がやってもいいものはできないと思ったら、「僕はもう、この辺でおしまいにします」と、子供が離れていくように、すっと、離れていくんだと思います。でもまだ、その時は来ていません。
やりたいことが依然としてあって、今秋、発売予定の最新作『ポケットモンスターブラック・ホワイト』には、さらに新しい仕組みと世界観、遊びを盛り込んでいますから、絶対にまた、みんな楽しんでやってくれるに違いないと思っていますね。
そんなふうにして、ずっとポケモンに携わり続けてきたということでしょうか。
海外市場は考慮しなかった
浜野 やはり最初は国内市場で、と思っていたんでしょう。
石原 お客さんとして、海外の子供たちの顔をイメージしながら作っていたつもりはなかったです。ポケモンが世界中で遊ばれることになるとも、あまり思っていませんでした。とりあえず日本の、自分の知っている子供たちがこれで遊んだらきっと夢中になるぞ、ということだけ考えていましたね。頭に浮かべていたのは、自分の知っている近所の子供たちだったんです。
(1)田尻智(たじり・さとし):株式会社ゲームフリークの代表取締役社長。ポケモンの生みの親。