司会 世界からの手ごたえが最初に来たのはいつ頃でしたか。
石原 1998年にはもうすでに。そして99年には、世界中で爆発的な人気を博していました。
司会 当時の印象を思い出していただくとしますと。
石原 余りにも爆発的すぎて、全く自分たちでコントロールが出来ないというか、何から手をつけていいかわからないという状況が、世界中で起きているという感じでした。
司会 それでやったことといいますと。
ポケモンを守って育てる会社・ポケモン
石原 ポケモンというブランドを息長く育て、ずっと楽しんでもらえるようにしないといけないな、と。それには、いろんなことを他人任せにしていたのではだめだ、と思いました。
ライセンスし、サブ・ライセンスし・・・というようにやっていくと、キャラクターが際限なく、使い捨てにされていきかねません。そこは一元化しなければならないと考えまして、「株式会社ポケモン」を作ることにしました。
利害が個々に分散していると、権利の主張と衝突が起こる可能性も否めませんし、ポケモンの商業権を一元化して、初めて著作権や海賊版への対処がきちんと迅速にできるのだろうな、と。そんな思いから、今の、この会社、株式会社ポケモンを作ったわけですね。
浜野 黒澤明監督に、似た経験があったらしいです(注・浜野氏と故黒澤監督との関わりは本シリーズ前回を参照)。
気づいたら海外の人たちが自分の映画を見ていて、自分のことを映画人の誰も彼もが知っていた、っていう現実。これに初めて直面したときは、「やはり大きな衝撃だった」と言っています。石原さんを見舞ったものも似たような衝撃だったのじゃないか。
それにしても石原さんの場合、作品の権利を商品として淡々と守って育てている――それ自体簡単なことではないですけど――というより、やはりポケモンを育てて来られたお一人として、自分たちの中から世に出たものに対して「いとおしい」という気持ちを失わずに今まで来ている。ここは、石原さんならではなんだと思います。
そこがまた、ポケモンが、日本発のほかの例と違って消尽されない。息長く続いてきた理由でしょう。自分たちの目が届く範囲に置いて育ててきたというのはすばらしいことだと思います。
でも思いますと、任天堂のゲーム機に載るソフトだったわけですし、先行して世界展開していた任天堂と組んでいた良さもあったのかな、と。任天堂の国際流通網は、ある程度ポケモンを守ったのじゃないかと思いますが、そこは。