風光明媚で穏やかな駿河湾に、地元の漁師が出したのか、影のような小船が見えます(④)。そして大きな白い帆をかけた船が数艇、ゆったりと描かれています(⑤)。上方とお江戸を結ぶ千石船が、海の難所の遠州灘を越えてきたのでしょうか。
知ってか知らずか、広重さんの描いた駿河湾は桜エビが日本で唯一獲れるという稀少な漁場です。海岸からわずか2キロほど沖で水深500メートルに達し、湾の最深部は2500メートルにも及ぶ世界有数のダイナミックな地形が海の幸をもたらすのだとか。つまり、標高3776メートルの富士山との高低差は何と6000メートル以上。広重さんは、日本一高き山と深き海を描いていたのです。
しかし絵の一部には、全体の静けさとは反対の描写も。まるで西洋の抽象画の表現のような垂直に切り立った岩肌(⑥)や、嵐に遭った跡のような折れ曲がった松の枝(⑦)などからは、何やら不穏な気配も漂います。
まさか広重さん、この地「由井」出身といわれ、江戸幕府の転覆を目論んだという江戸時代初期の悪役の1人、由井正雪(しょうせつ)さんのことでも思っていたのでしょうか。
【牧野健太郎】ボストン美術館と共同制作した浮世絵デジタル化プロジェクト(特別協賛/第一興商)の日本側責任者。公益社団法人日本ユネスコ協会連盟評議委員・NHKプロモーション プロデューサー。浅草「アミューズミュージアム」にてお江戸にタイムスリップするような「浮世絵ナイト」が好評。
【近藤俊子】編集者。元婦人画報社にて男性ファッション誌『メンズクラブ』、女性誌『婦人画報』の編集に携わる。現在は、雑誌、単行本、PRリリースなどにおいて、主にライフスタイル、カルチャーの分野に関わる。
米国の大富豪スポルディング兄弟は、1921年にボストン美術館に約6,500点の浮世絵コレクションを寄贈した。「脆弱で繊細な色彩」を守るため、「一般公開をしない」という条件の下、約1世紀もの間、展示はもちろん、ほとんど人目に触れることも、美術館外に出ることもなく保存。色調の鮮やかさが今も保たれ、「浮世絵の正倉院」ともいわれている。
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