言葉の見直しもありました。過去の垢がついた「熱帯医学」(tropical medicine)ではなく、「国際保健」(international health)という新しい言葉が生まれ、最近では「グローバル・ヘルス」(global health)といったりもする。熱帯の病気に関する医学も人類全体のためにやるものだという流れがいまはあります。
●先生が所属する熱帯医学研究所の成り立ちについて教えてください。
——日本は、西欧諸国にだいぶ遅れてアジアの植民地獲得に乗り出しました。西欧と同じように、植民地獲得に出ていく仲間たちを現地の病気から守るための研究所を作ることになり、対東南アジアの研究所が台湾に、対中国の研究所は1942年に長崎に作られます。それが、熱帯医学研究所の前身である東亜風土病研究所。なぜ長崎かというと、当時の中国へのメインルートは長崎→上海だったからです。
終戦後は、植民地時代の遺物のイメージが強い熱帯病研究はふさわしくないと見なされ、国内の風土病に研究が移りました。名称も風土病研究所に改められた。それで、フィラリア症のような日本の風土病はほとんどなくなります。
さらに時代を経ると、植民地時代のイメージが薄れて世界へ再び研究者の目がいくようになり、1967年に、長崎大学熱帯医学研究所に改称されました。当時、OTCA(現JICA)は戦後賠償をテーマに活動していました。経済の分野以外でも海外援助をしたいOTCAと、熱帯医学の現場に出たい熱帯医学研究所。思惑が合致して、両者の連携が始まります。
当時研究所内では、東南アジアに行くかアフリカに行くかで意見は二分されましたが、結局両方に研究者が行くことになりました。
●日本の熱帯医学が世界に出て行った黎明期ですね。でもいまでは熱帯医学は少々マイナーな存在だと聞きました。
——植民地時代が終わると、熱帯地に赴く仲間を守るという当初の需要は減り、同時にアカデミックな世界では、病気が病原体で起こるという感染症の概念は確立されていました。感染症は抗生物質などの薬で治療ができるし、ワクチンで予防もできる、というわけ。すると、感染症はもう放っておいても大丈夫という空気になります。原因がわかったんだから、あとは地道に作業を重ねれば感染症撲滅はもう時間の問題というわけです。