今では想像できないでしょうが、当時はアフリカに行くなんて月に行くくらい難しいイメージがあったんです。高校の頃は、一生のうちで一度でも飛行機にのれたらものすごく幸せだろうと思っていました。
それで長崎大学に進学しましたが、学校に入った後はアフリカのことなんかすっかり忘れてしまって、当時流行った運動ばかりやって、結局8年間いましたね。
●運動といっても当時はスポーツじゃなくて学生運動なんですね。
——そのうち、卒業が近づいてきて、将来を決めないといけない時期になります。子供の頃にかかりつけだった病院の先生のイメージもあって、私は普通のお医者さんになりたかったんですけどね。医者になるには医学部を出て大学の医局に入るのが常道ですが、臨床の医局には入れてもらえそうもなかったんです。
それで、結局、熱帯医学研究所の寄生虫学部門にいた片峰大助教授に拾ってもらうことになりました。私から見れば、熱研にいればもしかしたら憧れのアフリカに行けるかもしれないという期待があった。先生から見れば、感染症なんていう斜陽の分野にきてくれる貴重な人材だったでしょう。両者の思惑がぴたっとはまったわけです。
でも、アフリカに行く可能性はゼロだと思っていました。当時、熱研の先生たちがアフリカから帰ってくるとよく言われましたよ、「なんとかケニアまでたどりついてくれれば後は面倒みるから」と。大卒の初任給がたぶん10万円に届いてない頃。ケニアまでの旅費は往復で70万〜90万したんじゃないかな。計算すると、1年休学して飲まず食わずアルバイトをすればそれくらいたまるとわかりました。だから、ほとんどあきらめていたんです。
でも院生2年のとき、ある日突然、教授から「行くか?」と言われた。どこなのかもわからなかったけど、すかさず「行きます」と手をあげました。それが1975年のことです。
初めて行ったアフリカは、なぜか懐かしい感じがしました。ものすごく不思議で、説明のしようがないんですが、あえて具体的にいえば、においかな。私は広島育ちですが、ひょっとしたら広島の焦土の砂埃と近い感じがしたのかもしれません。しかも、そこは憧れのキリマンジャロのふもとだったし。
●最初からしっくりきたアフリカ。行ったのはマラリアの研究のためですか。
——いえ、住血吸虫症の研究です。これはいまでも私のメインのサブジェクト。 住血吸虫は人が川や湖の水に浸かるだけで感染します。体長約1㌢で太さ1㍉くらい。成虫ではオスの体にメスが挟まった状態で仲良く生きています。これが人間の血管に住む。種類によって好む場所は決まっていて、たとえばマンソン住血吸虫は腸間膜静脈、ビルハルツ住血吸虫は膀胱の静脈が居場所です。
住血吸虫症はどういう病気かというと、血管の中に産み落とされた卵が、血管を詰まらせてしまうものです。たとえばマンソン住血吸虫症の場合は、肝臓にひっかかって塞栓になる。肝硬変で死んだり、食道静脈瘤になって死んだりする。