そして1960年代、熱帯医学にとって重要な出来事が起こります。アメリカのサージョン・ジェネラル(公衆衛生局長官)が、「いまや感染症の教科書の扉を閉じるときがきた」と有名な証言をしたんです。感染症に対する興味は、これで世界の医学者から失われました。感染症研究がメインとなる熱帯医学への興味は当然のように失われ、研究費も出てこなくなった。一言でいえば、マイナーな存在になった。世界の医学の主たる興味は、感染症から癌や免疫などへと移ってしまったんです。
私が長崎大学医学部を卒業したのは、そんな時代でした。熱帯医学研究所に入るといったら、周りの仲間から「おまえ、バカか」と言われたのを覚えています。もうそんな分野はなくなるから行ってもしょうがない、ということです。
●そもそも医学部に進んだのはどうしてですか? やっぱり勉強ができたから?
——いえ。勉強のセンスはなかったですね。私らの時代は、いまと違って、勉強できない奴が医学部に入っていたんですよ。いまは勉強できる奴ばかりが医者になりますが、医者は馬鹿でいいんです、人間がよければ。頭が賢くても、医者は人間がよくなければだめだと思います。
いま思い出せば、小さい頃、かかりつけの病院がありまして。小学校高学年くらいでその病院に行ったとき、待合室に使用済みの切手を募る箱があるのに気づきました。本棚には岩村昇という方の本もありました。ネパールで結核の予防や治療に取り組んでいた先生です。病院の先生に聞いたら、岩村先生は自分の仲間だと教えてくれました。岩村先生をサポートしたくて切手の箱を置いているのだと。古切手は集めてお金にしてBCGのワクチンを買うためのものだったんです。
いまでこそそうした活動をよく見かけますが、当時はほとんどなかった。だから、非常に強く印象に残っています。これは、自分が医学に進むきっかけにはなったかもしれません。いま思えばですが。
あとは、アフリカに行きたかったんですね。その頃、山ブームが確かあって。ちゃんと覚えていませんが、キリマンジャロに憧れていたんじゃないかな。高校時代のある日、学校をサボってアフリカが舞台の映画を観に行きました。題名は「ブワナ・トシの歌」。「ブワナ」はスワヒリ語で「ミスター」という意味ですから、「ミスター・トシの歌」ですね。主演は渥美清。売り出し中の時代でしょうね。
●渥美清はまだ「寅さん」じゃなくて「トシさん」だった、と。
——当時、京都大学の今西錦司グループが類人猿の研究でアフリカに行っていました。この研究で現地に観測小屋をたてるという使命で同行したのがブワナ・トシと呼ばれた日本人で、この人を主人公にした映画でした。現地で観測小屋を立てるまでを描いた映画です。
これを観に行って、アフリカっていいなーと思ったんでしょうね。平日昼だからか、ヒットしなかった映画だからかはわかりませんが、そのとき客があまり入ってなかったのは覚えています。
私が大学に入ったのは1966年。どこの大学に行くか考えていたときに、「蛍雪時代」が出した大学案内を見たら、長崎大学に熱帯医学研究所というものができると書いてあった。それを見て、ここに行けば自分もひょっとしたらアフリカに行けるかもしれない、と思いました。