忘れることもできないアジア通貨危機といっても、「何ですか、それ」という青年が多くなった。思えば二昔前のことなので、40歳以下の人にはピント来ない。経済戦争ともいうべきアジア通貨危機・韓国編が起きて、この秋はちょうど20年なのでひとこと。
ソウル五輪1988年の少し前に韓国を訪問したが、サムスン電子のテレビ工場は、厚いボール紙の板に穴をあけて、基盤を作り抵抗器などはめ込んでいた。
10年の時を経て、訪ねるとソニーと同等のレベルになっていて、全て自信に満ちていた。力に任せてサムスンは、乗用車生産を開始したのが、ちょうどその頃だ。政治の方は、金泳三大統領はすでに任期末でレイムダックとなり、1997年末の選挙に向けて国は二分していた。本流の李会昌氏と東京から拉致されて忽然と消えたことのある金大中氏との闘いとなっていた。
同時期、すでにアジア通貨危機はインドネシアからタイに飛び火して、識者は韓国への延焼を心配していたところであった。
ご当局の懸念のとおり、外貨準備が底をつきはじめ、タイからの嵐が来ればひとたまりもない状況であったようだ。同時進行で盛んに国営企業の外貨建て債券の発行が準備された。
一般に韓国物の起債ビジネスはきびしいのが通例だ。業者に競わせ、争わせて、最良の条件を引き出すことになる。しかし、この時期、なにかに憑かれたように発行を急いでいたと今になれば思い出される。ともかく外貨が手に入れば、レートは度外視ムードであった。
案の定、大手の名門、第一銀行の破綻が発表され、アジア通貨危機、インドネシア、タイに続いて第三幕となる韓国通貨危機の狼煙があがった。
その後に、僅差で大統領に当選した金大中氏からは、「心配で夜も寝られない」という発言があった。国民は失業など難儀があったが、いわゆる財閥企業グループにはさらに厳しい試練となった。
特に韓国の経団連ともいうべき韓経連の会長でもあった大手財閥大宇の創業オーナー金宇中氏の企業群は厳しいリストラを迫られることになった。
大宇グループは、漢江の奇跡を生んだ朴正煕大統領の筋でもあったが、急拡大で資金がついてゆかない状態であったのだろう、大宇自動車、大宇重工業、大宇証券など、傘下の上場企業は、額面割れとなっていて増資も起債も不可能な状態であった。
借り入れできず、増資も起債も不能であれば、資産売却しか手がない。他の財閥グループも多少の濃淡はあったが、拡大戦略を展開中に資金調達ができなくなったことから、転び始めてしまった。
そんな状態で、IMFの支援受け入れが宣言された。直ちに韓国中が一致団結し、国民は自主的に金を供出したりして国を支えた。一方の大手企業は拡大したビジネスを整理統合し、外国企業に売却するなどして汗をかいた。
これをワーク・アウトと呼んでいたと思う。ジムで汗を流すことと同意語だ。
街でも、「IMF」と叫ぶと、タクシーに同乗させてくれるなど、危機に対して国民的結束が高まっていた。