哲学のおもしろさは、自分の主張が間違いである可能性、人から批判される可能性がものすごく高い地点で、それでも批判されないことを言ってやろうとするスリルにあります。ラフなところで手を打とうなんて考えると、全然スリルなんかないわけ。なんでロッククライミングがおもしろいかというと、それは気を抜いたら落ちる危険があるからでしょ。哲学も、落ちる危険がないんだったらおもしろさは半減するね。
もしカントが自分と違うことを言ってたら、それは自分が間違っているかカントが間違っているかのどちらか。相手が誰であろうと、哲学は一騎討ちです。
●哲学って、対決してやっつけるものだったんですか。
——そうです。やっつける感じ、大事だよ。大森先生なんか、いつも反論してこいといってやっつける人でした。いつもバチンバチンとぶつかり稽古しているようなもので、横綱がペーペーに胸を貸すという授業だった。大森先生がぼくらに叩き込んでくれた哲学の感触というのは、まさに格闘技の感触でした。
運命的だったとは言わないけれども、大森先生と出会わなかったら、いまごろ自分はなにをやっていただろうなぁ、とは思います。
●ウィトゲンシュタインとの出会いはいつですか。
——大学院を受けるときに『論理哲学論考』を読んで、最初はもちろん全然わからなかったけれども、かっこいいと思ったんです。わからないけどかっこいい。そうすると、わかりたいな、と思うでしょ。そういうの、大事だと思うんだ。
最近の大学では、授業はわかりやすさが求められます。でも、いつかやりたいなと思うのは、学生が聞いていてわからない、でもなんだかかっこいいからわかりたいと思うような授業、何年かたってから、あのとき野矢が言ってたのはこういうことだったのか、と気づくような、謎としての生命力が強い授業です。そのときはわからなくてもわかりたいと思わせて、謎が残って、後からこうだったのかと言えるような授業こそが、大学らしい授業だと思う。
本も同じ。昨今の本は読みやすさわかりやすさ優先のものが多いんだけれども、読みにくいしよくわからない、でも謎を喚起する力がものすごく強いという、そういう本に僕は憧れをもっています。わかりやすければいいっていうばかりじゃないぞというのが、常に頭の片隅にある。
●後から効いてくるということですね。
——そう。でも、じわじわっとわかるというより、あるときハッとわかる。哲学では、謎を一年、二年とかかえこんで、何かの拍子にカチッとはまって、「あ、そうか!」って思うのが快感です。それがポジティブな記憶に結びついて、その後も求めずにはいられない体になってしまうわけ。哲学の麻薬効果と言ってもいい。
●一般のわれわれももっと哲学の本を読んだりしたほうがいいと思いますか?
——それは自由だけれど、もし読むのならば、アドバイスを一つ。哲学の本だと、ありがたそうな言葉を抱きしめる読書になりがちですが、それで終わってしまってはだめです。哲学書というのは、自分の理解をこえた他者からの挑戦。はみ出たものをつかもうとして自分が変わっていき、その本が「あ、こういうことだったのか」というふうに見えたときというのは、自分がひとまわり広がった瞬間。おまえにわかるのか、という他者からの挑戦に応えるのは快楽です。僕はこの快楽を知ってしまったわけ。もう一生遊べるね。
⇒後篇につづく(11月17日公開予定)
野矢茂樹〔のや・しげき〕
東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は、現代哲学、分析哲学。ウィトゲンシュタイン研究の第一人者として知られる。平易な言葉での哲学書や論理学入門書には定評がある。主な著書に『新版 論理トレーニング』(産業図書)、『哲学・航海日誌』(中公文庫)、『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)、『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)など。
■「WEDGE Infinity」のメルマガを受け取る(=isMedia会員登録)
週に一度、「最新記事」や「編集部のおすすめ記事」等、旬な情報をお届けいたします