それから、「他者」。なにを他者と考えているかといったら、他人が発する言葉。たとえば、相手が自分と違う業界の人だったり、違う文化を持つ人だったりすると、ディスコミュニケーションはすぐ起こる。それでもその人を理解したいと思うなら、手持ちの言葉に翻訳するだけじゃなくて、相手を理解するために自分も変わらなくちゃいけない。他者は自分の手持ちの言葉では語りえないものです。常に自分の理解をはみ出て逃げていく、その捉えきれない運動こそが他者だと思う。他者というのは、その語りえなさのなかにこそ現われてくる。
●すでに先生が自分の理解をはみ出しつつあります。ところで、少年時代は一人で妄想にふけるタイプだったそうですね。
——高校生の頃、得意だったのは現代文(とくに評論文)と数学でした。つまり、論理的なものが得意だったわけですね。反面、現実的なもの、たとえば政治や経済は好きになれなかった。だから、妄想といっても、僕がふけっていたのは、情緒的な妄想ではなくて、論理的な妄想。
僕は小学校の頃から、家の犬を散歩させる係だったのですが、朝と晩、犬を散歩させながら妄想にふけるという毎日を過ごしていました。一回20分で、それが朝と晩にあったとして、小学校から高校まで毎日散歩したとすると、2000時間は妄想にふけっていたことになります。この生活で、頭の中であれこれあれこれ考えるのが身に付いたんだと思う。
●高校の頃、同級生の女子から「男はちゃんと職につかなきゃだめ」と言われて理系に進んだというのは本当ですか。
——いや、そういう言い方だったらグッとこなかっただろうね。あるとき、「野矢くんは何になりたいの?」って言われて、「さあ」って答えたら、「男の子は、消防士になるんだとか、ちゃんと自分のやりたいことを言えなきゃだめ!」って言われたんです。「消防士」という具体的な言葉にクラッときてしまった。それが医者とか弁護士とかだったら、なに言ってやがんだ、と思うだけなんだけど、消防士って言われたのがなんだか胸に響いたの。
●消防士と言われてグッときて理系に?
——おかしいけれど、そういうものなんですよ。文学部じゃだめだと思った。法律にも政治経済にも興味がなかったから、文系だと文学部になっちゃうでしょ。文学部の人には悪いけど、文学部というといかにも半端な響きがした。男の子はそれじゃいけないんだなと思ってしまったわけです。
それで理系に進んで、東大の理Ⅰに入学したけど、どうもなじめず、教養学部の科学哲学コースに学士入学で編入しました。
●そこで大森荘蔵さんと出会ったわけですね。
——大森先生のことを知って行ったわけじゃなかったんですけれども、そこで先生のパンチ力のすごさに出会ってしまった。もともと論理的な妄想にふけるタイプで、世の中のことを知りたいというより自分の中であれこれあれこれ考えるのが好きだったのが、大森先生に会ってそれが全開になった感じ。共鳴したというか、共振したんでしょうね。