だけど、人間の場合は、非現実のことをあれこれ考えるし、うそもつける。人間はただ一つの現実世界に住んでいながら、非現実の世界を開いてしまう。言葉が切り開く。それが人間の独特のあり方だと思うんです。ここにこそ、自然現象に尽きない、自由だとか心だとかが開かれてくる扉があるだろうと思っています。うそのつけない動物には自由がない、ということになるんじゃないかな。
自由というのは、なにかを為したときに、そうしないでもいられたということが本質。そうするしかなかったのなら、自由とは言わない。実際には手を挙げたんだけれども、手を挙げないでもいられた。そういう現実とは違う了解が自分の行動に伴っていなければ自由とは言わない。それはやっぱり言葉がもたらしてくれる了解だと思う。
鳥は非現実の思考を持ち得ないでしょう。現実の刺激に対して現実の反応をするしかない。上昇気流があればそれに乗って上がるし、体勢が崩れたら立て直す。現実の刺激に対して非常に敏感に反応していくけれども、そこに非現実の思考が伴っていない以上、鳥を自由とは呼べないだろうなと思います。
●哲学って、ありふれたことを“哲学風”にして難しくしている気もします。わざわざ面倒なことを言わなくてもいい気がするのですが……。
——たとえば、自由について特に問題を感じてない人に話をすると、少し問題が生じたようなもやもやした気持ちになってくる。それに対して哲学の議論をすると、もやもやがなくなってスッとする。それは結局もとに戻っただけじゃないか、と言いたくなるのかもしれないけど、そうじゃない。議論をした後では、自由というものに対してずっと見通しがよくなるんです。明晰に、クリアになる。
なにかが自分の中でどうも折り合わずに衝突していると感じる。自分のなかにそうしたギクシャクしたものを見つけちゃう。それをもう一度ストンと落としてやるというのは、もとに戻ったのとは違うわけ。自分がもっている考え方や概念はパッチワークで、実は統一がとれていなかったりする。それをもっとすっと整合的に一貫した形で考えられるようになる。哲学の議論をすることで、自分が何を考えているのかが明晰に見えてくるんです。
●自分のような一般人は、考えても結局わからない、で終わりになりそうです。
——プロの哲学者は、あまりにでかい問題を抱え込んで身動きとれなくなる状態には自分を置かないわけ。でかい問題のなかで、自分の手が届きそうなところに小さい問題をたてて、そこから考えていく。でかい問題は残っているんだけれども、手の届く問題を作ってやっていける、というのがプロの哲学者の技術。ちゃんと頭がまわるように問題をたてるっていう技術。そうしてやっていけば、「あ、そうか!」の瞬間は何回もやってきますよ。大きいのはそうはないにしても。生きているなかではいろいろなうれしい瞬間があるけれども、哲学で「あ、そうか!」と思えたときが僕は一番うれしい。うまいものを食べたときよりもね。
●最近、「あ、そうか!」はやってきましたか。
——昨夜も原稿を書いているときにひとつありましたよ。そういうことは日常茶飯事です。僕の場合、問題を明確にして一時間も散歩すればだいたいのことは解けると思っています。それで解けなかったら、しょうがないから一度寝かせてみる。そういうものです。こっちの方向に進めばおそらく大丈夫だ、という嗅覚を磨くのが、哲学者にとっては大事なことだと思いますね。
野矢茂樹〔のや・しげき〕
東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は、現代哲学、分析哲学。ウィトゲンシュタイン研究の第一人者として知られる。平易な言葉での哲学書や論理学入門 書には定評がある。主な著書に『新版 論理トレーニング』(産業図書)、『哲学・航海日誌』(中公文庫)、『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)、『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)など。
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