香港文学史に残る傑作と断言する所以
ところが、オキュパイドセントラル直前となる2013年の、おそらく尋常でなかったろうストリートの空気感は、第一話が密室劇であることもあり、あまり描かれていない。
また第三話、97年香港返還の風景は(事件発生現場は地域住民がごった返す市場で、市中のカーチェイスシーンまであるが)、返還だからといってとくに人びとの焦燥や不安、期待を感じさせる描写はない。あるいは、その場所に生きる香港人たちからすれば、1997年7月1日は「劇的」というより、連続する日常のひとコマにすぎなかったのかもしれない。
ただ、そんな代わり映えしない日常は、じつは小さな変化の連続であり、十年、二十年を経ると、まったく異なる舞台装置として現れる。そして、我々はおおよそ十年ごとに"再"登場する「人物」を通じて、香港社会の大きな変化を知らされることになる。
この連作小説は香港史の六つの転換点を描くというより、六つの通過点を定点観測しているのだ。またそれは「遡る」からこそ刺さってくる。著者の構成力――ストーリーテリングの妙がここにあり、本書が香港文学史に残る傑作と断言する所以である。
巨大雑居ビルでのアクションシーンにも注目
もちろんエンタメ小説だから(歴史どうこうを考えなくとも)、六つの独立した短編としても楽しめる。うち白眉たる第四話は、香港映画顔負けのガンアクション小説であった。
香港によくある巨大雑居ビルで凶悪犯人による籠城事件が起こり、三人の刑事が階段から突入していくのだが、翻訳しながら、その空間の把握にかなり時間がかかった。消防法の規定が日本と違うのだろう、「階段(室)」の手前のドアが、常は閉まっているのだ。結果、階段と居室部をつなぐ短い廊下の前後に二枚のドアがあり、それを挟んで犯人と警察隊が対峙し、ついに銃撃戦が発生する。
翻訳時にDVDを見直したが、ジョニー・トー監督『ブレイキングニュース』では犯人グループが巨大団地に籠城する際に、階段と廊下を駆けずり回るし、アンドリュー・ラウとアラン・マックが共同監督した『インファナル・アフェア』でも、屋上の名シーンに至る前後で階段室のドアを開けるシーンがあった。