でもこの美術館の引力となった井藤勲雄〔いとういさお〕氏は、そういうオーナー社長ではない。広島銀行のふつうの一銀行員だった。もちろん最後にはこの銀行の頭取にまでなるのだけど、それは結果の話なのだ。
戦前、のちに広島銀行となる前の芸備銀行に入行している。戦時中は兵役となる年齢だったが、肺の病気を患い、行員をつづける。そして八月六日、原爆炸裂。市内は阿鼻叫喚の地獄世界となる。井藤氏はその直接の惨禍は免がれたが、次の日から復興の激務がはじまる。あまり想像できないことだが、銀行というのはあの惨禍の中にあっても、人々の生活の呼吸器として、活動を休めないのだ。
この決定的なトラウマは、井藤氏の「広島に美術館を」という思いの原動力となっている。
美術への接触は、先代の頭取の秘書時代にあった。先代頭取の橋本龍一氏も絵が好きで、東京出張の折、画廊や美術館巡りによく連れられて行ったそうだ。もっとも井藤氏自身、学生時代に竹内栖鳳の絵に出合い、あり金はたいてその絵を買ったりしているわけである。
それと隣県の倉敷市には大原美術館があり、その創立者の子息大原総一郎氏は六高の同級生だ。そのことも美術館の存在を比較的身近に感じる要素とはなっていたはずだ。
頭取となった井藤氏がはじめて買った絵は、ルノワール「麦わら帽子の女」。東京の日動画廊で見てから買うまでにはずいぶん時間をかけている。そのころはまだ具体的な美術館構想はなく、広島市民への奉仕の思いで、広島銀行から県立美術館へ寄託していた。でも作品が増えるにつれ少しずつ美術館構想が固まってくる。
購入先は主に日動画廊からだそうだ。銀行の収集委員会もあったが、主に井藤氏の望む方へ進んだ。その点ではかなりワンマンだった。でもそれはいわゆる権力欲のワンマンではなく、広島の文化のためにという強い思いがあったからだ。
美術館構想を大きく固めたものに、ロビンソン・コレクションの購入がある。ロビンソンとは、何と、あのハリウッド映画の悪役エドワード・G・ロビンソンだ。まさか、と驚いたが、陰では美術品のコレクターとして有名だったそうで、その意外性に嬉しくなった。一括オークションなのでそうとうな決断を要したが、モディリアーニ、ドラン、デュフィ、ドガ、ピサロなど、名品が集る。