ニューヨークでの衝撃体験
短大を卒業してから、画廊でアルバイトをしながら世に出すあてのない作品をコツコツと制作する生活が3年、4年と続く。その頃の小松はかなり酒量も増えていたらしい。
そんな小松の名が突如メディアに登場するようになったのは09年。きっかけは、小松の行きつけのバーに飾られた「かわいい寝顔」という題名の1枚の銅版画を見た、プロデューサーの高橋紀成(きせい)によってもたらされた。
「かわいい」という言葉が何かの間違いではないかと一瞬思うが、じっと見ているとかわいいかも……と感じられる奇妙な作品の作者に会ってみたいと思った高橋は、それがカウンターの端で酔いつぶれているまだ24歳の女性だと知ってびっくりしたという。高橋は、阿久悠のトリビュートアルバムのジャケットデザインコンペに応募するよう勧め、小松はそのコンペを勝ち抜いた。
アルバムが話題になると、不思議なジャケットを描いたアーティスト小松美羽もメディアに取り上げられるようになった。が、必ずついて回る「美しすぎる銅版画家」というフレーズ。当時、本人には相当な抵抗感があったようだが、それでも小松の存在は強烈に世に知られるようになる。
その2年後、高橋はニューヨークで行われる新進アーティストのアート合宿に参加しないかと小松に声をかけた。小松は制作に使うプレス機も買い、薬剤も揃え、銅版画家として生きる環境を整えていたが、参加費用を自ら捻出して初めてのニューヨークに飛んだ。
「ニューヨークに行って、私自身が激変したと思います。自分に足りないところも見えてきました。作品のスケール感が全然違う。もっと大きなものを作りたいと思っても、銅版画では無理だと限界を決めちゃっていたんですね。現地で出会った現代アーティストたちは、自分が表現したいものを最も表現できる手法を縦横に駆使して、面白いものをたくさん生み出しているんです。私は表現手法にこだわりすぎていた。何でそんな固定観念を持っていたんだろう。何でもっと限界を突き破っていけなかったんだろうと思いました」
目から鱗が落ちるように、知らずに自分を縛ってきたことに気づいた。内部でビッグバンが起きたかのように、帰国後はそれまで使わなかった色を積極的に使うようになり、銅版画に加えてペイント画や墨絵など表現の幅を広げ、陶芸、蒔絵、染色など伝統工芸とのコラボレーションにも果敢に挑んでいる。