2024年11月22日(金)

古希バックパッカー海外放浪記

2018年2月18日

スージーズ・ゲストハウスはチャイナタウンの目抜き通りから歩いて1分という絶好のロケーション

「今の幸せな生活はマハティール首相のお陰です」

 ルーシーの一家は貧しく昔のことを話すのが一種のタブーであったという。それで詳しい家族のルーツが分からないと嘆いた。ルーシー自身子供のころから子守、物売り、洗濯、店番となんでもやって家計を支えてきたという。旦那と結婚してからも働きづくめで22年前にやっとゲストハウスを開業。

 ルーシーの兄は1954年生まれ。子供のころから働き者で給料がよい国営石油会社ペトロナスの石油掘削作業員になった。熟練潜水夫として世界中の海上油田で作業して家族を養ってきたが、長年の無理が祟って早死にしてしまった。

 「でもマレーシアは前の首相(マハティー)のお陰で素晴らしい国家になって、世界中に自慢できるようになったわ」とルーシーは明るく総括した。ゲストハウスにはルーシーが家族や友人と出かけた数々の海外旅行の記念写真が溢れている。半世紀近く身を粉にして働き通したルーシーは、海外旅行もできる現在の生活水準をもたらしたマレーシアの経済成長に心から感謝していた。

セージとシェーンの母子手帳。左側が母親のセージ、右側が子供のシェーンの記録。撮影当日は定期健診で母子ともに順調との診断結果

ファミリーの出自にみる宗教・民族の多様性

 ルーシーの亡くなった旦那はポルトガルと華僑の混血。彼の姓はゴメス(Gomes)。ポルトガル移民の三代目でカトリック。それでルーシーの息子も孫もゴメス姓が名前につく。

 ルーシーの次男の嫁のセージはKKからバスで2時間ほどの村の出身。彼女の家系は華僑とマレー系の混血で代々仏教徒。クリスチャンのシェーンとの結婚にあたりキリスト教に改宗。シェーンが強要したわけではなく、セージがシェーンと価値観を共有したいと望んで改宗を決意したという。

 回教徒が多数派とはいえ、このような多様性を許容し共存共栄している現在のマレーシアは多様性社会の理想のように思えた。

漢方薬と海産物の老舗卸問屋『祥安』の看板。ご主人は72歳で広東華僑4代目。初代は清朝末期西太后の時代に苦力としてKKに来た

チャイナタウンの一世紀半の歴史

 11月19日。コタキナバル(通称KK)はサバ州の州都でありボルネオ島マレーシア領で最大の都市で人口55万人。KKの観光の中心は町の北東部のラマ地区だ。漢字の看板が氾濫するチャイナタウンである。チャイナタウンの中心はガヤ通りだ。

 KKは19世紀後半から英国領植民地開発の拠点として建設された。英国総督は労働力不足を補うため中国から苦力(クーリー)を積極的に受入れた。苦力の子孫が店を開いてチャイナタウンを建設した。

 ルーシーのファミリーヒストリーを聞いてチャイナタウンの歴史に興味を抱いた。散歩しながら、店番をしているお年寄りを見かけると挨拶して声を掛けてみた。彼らのほとんどは標準中国語(普通語)を多少なりとも解した。

 華僑は出身地の言葉が日常言語なので、標準中国語は英語と同様に学習して習得する外国語に近いようだ。出身地は広東、福建、海南、潮州など様々である。

『仁寿堂』の外観。店内の壁に1960年に寄贈された木製の看板が掛けられている

ある華僑の反日感情「日本軍のために二度も酷い目にあった」

 KKは戦前ジェッセルトンと呼ばれていた。19世紀末から英領植民地の拠点として栄え、第二次大戦前には華僑の子弟のための中華小中学校が建設されたほどチャイナタウンは繁栄。第二次大戦では日本軍の司令部が置かれ日本の軍事拠点となった。そのため連合軍が無差別爆撃したため街は灰燼に帰した。そして戦後は豊富な鉱物資源、南洋木材、農産物を背景に経済復興を遂げた。

 漢方薬の卸問屋“仁寿堂”で60歳の店主と話していたら「日本人に悪い感情を抱いている華僑は多いよ。我が家は日本人には二度酷い目に遭った。父の一家は日中戦争で日本軍侵攻により難民となって広東からボルネオに逃げてきた。父親は英国人のゴム農園で苦力として働いて金を貯めて漢方薬の店を開いた。商売が軌道に乗ったら、今度は太平洋戦争で日本軍のために爆撃を受けて全財産を失った。戦後父親は必死に働いて1960年に現在の店を再建した。その時香港の取引先から贈られたのが、あの看板だよ」と反日感情の理由を吐露した。

 ⇒第6回に続く


  
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