映画に取り憑かれて
滝田の映画人生は、ピンク映画から始まっている。生まれは富山県高岡市。富山湾と立山連峰に囲まれた静かな町で、野原を駆け回っていた少年が、なぜ映画監督への道を歩むことになったのか。映画館に通いつめる映画少年ではなかったらしい。
「ウチは酒屋だったんですよ。それが僕の人格形成にかなり影響していると思いますね」
小学生の頃から配達や集金の手伝いをさせられた。
「夜に学校の宿直室に酒を配達したら、先生たちが赤鬼みたいな顔でどんちゃん騒ぎしてる。当時は盆暮れ払いの商売だから、集金に行くとお金がらみの人の生態が面白い。きれいに払う人もいれば、これしかないから母ちゃんに言っとけとか、子供の僕を怒鳴りつけたり。同級生の母ちゃんが下着姿で出てきたり。無防備な大人たちの姿を子供の目で見ていると、表の取り繕った姿がおかしく見えてくる。何たって裏を見ちゃってるからね」
人間の見せる二面性は、どこか哀しくてどこかコミカルでもある。今思えば、映画監督にとっての財産をしこたま仕込んでいたことになるが、高校を卒業する頃になっても、肝心の自分の姿はつかめなかった。はっきりしていたのは、高岡を出たいということだけ。
「東京はアルプスの向こうで、誰も知らないところに行くって感じでしたね」
観光やデザイン関係などの専門学校を転々としても、何になりたいのか、何をしたいのかが見えてこない。でも、このまま田舎に帰りたくない。そのためには働いて自分で食べていくしかない。地元選出の国会議員の秘書に、近所に住んでいたという伝手(つて)を頼って仕事を紹介してほしいと頼みに行った。
「休みの多いところとか映画関係とか適当に希望を言ったら、目の前であっちこっち電話して『ひとり雇ってくれない?』と聞いて、断られて、はい次、みたいに。自分の人生がこんなふうに決まっていくのかと、何か自分でも笑っちゃってましたね」
その結果、雇われたのが向井寛(かん)監督率いる独立系映画制作会社「獅子プロダクション」だった。もし不動産会社に欠員があったら滝田の人生は全く違っていたわけで、滝田にとっても映画界にとっても幸運な偶然だった。
かくして、いきなり映画制作の現場に放り込まれ、初めて作る側から映画を目の当たりにした滝田は、そこで一気に取り憑かれたと語る。助監督として雑用を一手に引き受けたが、年間60本も制作するピンク映画の現場はひたすら過酷だった。
「映画を作る側の人間は特別なんだという幻想があったけど、決して特別じゃない。みんな貧乏でボロボロなのに、すっごく情熱があって、映画が好きだってことに理屈がない。何もないところから、わけがわからないうちに映画ができていく。相当な訓練の場だったし、僕には学校だった。思いきり濃い大人の中で全く違和感がなかったから、きっと水が合ってたんだね」