小樽の戦後史は衰退の歴史でもある。冷戦で大陸との交易は途絶え、エネルギー革命で石炭の積み出しは絶え、海からニシンが消え、駅から特急列車や長距離列車の発着がなくなった。小樽の人口は1964(昭和39)年には約21万人を数えたが、今では約13万人まで減少した。この課程で銀行も倉庫も駅弁の売り上げも、小樽から徐々に失われていった。
しかし1986(昭和61)年に道路拡幅事業での副産物として誕生した運河散策路が起爆剤になり、小樽は別の形で輝きを取り戻した。建て替えられずに残っていた欧風建築は、小樽の個性として脚光を浴び、注目と電気のスポットライトが当たるようになり、夜景に黄金色の輝きを与えた。駅弁も1991(平成3)年に登場した「北海手綱」が、漁船のロープをカニやイクラや錦糸卵で描いて評判を呼び、今の「海の輝き」へとつながった。建物は観光施設として、駅弁は観光客を対象にして、今の姿を演出している。
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小樽駅弁「海の輝き」は、イクラとウニと炒り卵だけが輝いているわけではない。煮汁を閉じ込めた椎茸を刻み、具と飯との間にトビッコを張り巡らせることで、見た目の具材の輝きに深みを与え、食べて柔らかい味にピリッと、そしてプチッとした刺激や変化を付けている。酢をとても軽めに配合した白御飯の分量や適度な柔らかさも、具の味を引き立てているのではないかと感じる。
列車の車窓に頼れない、頼らない美味が、ここにある。そして、駅弁屋の息子の名前から「輝」を取って付けた駅弁の名前に、この駅弁に対する駅弁屋の想いと、今後も小樽で駅弁を続けるぞという意気込みが感じられると思う。
※次回は、2月17日(木)更新予定です。
どうぞお楽しみに!
福岡健一さんが運営するウェブサイト「駅弁資料館」はこちら
⇒ http://eki-ben.web.infoseek.co.jp/
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