KKにも“からゆきさん”はいたのか
“無名日本人”たちは何をしていたのであろうか。KKの戦前の旧称はジェッセルトンである。日本の南洋庁などの記録を調べても、ジェッセルトンに日本企業が進出を検討するのは日本軍進駐の後のようである。“からゆきさん”に関する歴史研究で共通しているのは商人や男性の出稼ぎ者が全くいないような地域にも、最初の日本人として“からゆきさん”が海外渡航しているということである。
ジェッセルトンは英領北ボルネオの開発拠点として港湾が整備され1902年(明治35年)には鉄道駅も開業した。当時からサンダカンと並んで栄えていた町である。サンダカンに少なくとも八つの娼館が存在したのに、ジェッセルトンに娼館が一つもなかったとは信じ難い。コタキナバル(KK)にも娼館があったとすれば、一世紀以上前に“からゆきさん”はいたはずである。
まぼろしの“からゆきさん”を求めて
とにかく歴史を掘り返すしかない。領事事務所に照会したが、戦前の資料は残っていないという。東京の外務省資料館でも同様のようであった。
KK市庁舎に出向いて公文書として在留邦人名簿、娼館の営業許可、保健衛生当局の娼婦衛生検査記録等がないか聞いた。残念ながら、戦前の文書は大半が連合軍空襲で焼失したという。もし残っているとしても、郊外の公文書館(Archive)に行くしかないとの指摘。しかも検索するには専門的な分類を理解している専門家の指導がないと無理とのこと。KKの歴史を編纂した女性歴史家を紹介してもらったが、KK市内から数時間の僻地に住んでおり連絡が取れなかった。
地元の英字紙ボルネオ・ポストにも照会したが該当資料はなかった。そうこうして10日ほど経過した。
コタキナバル日本人墓地の無名日本人はやはり“からゆきさん”
諦めかけたときに、ゲストハウスでインターネット上で『サンダカン八番娼館』の粗筋を読んでいてアッと驚いた。サンダカン八番娼館の経営者(木下クニという女傑)が代わったのを機に、主人公北川サキがボルネオの「ヂッセルトン」の娼館に移ったと告白しているくだりを発見したのだ。
ヂッセルトンはKKの旧名ジェッセルトンのことである。北川サキは大正末期から昭和初期の時代に数年間ジェッセルトンの娼館で働いていたことを作者山崎朋子に伝えていたのだ。
実在の人物の証言により、コタキナバルに大正年間には既に娼館が実在していたことが確認されたのである。少女の時に売られてきた“からゆきさん”の平均寿命が20歳であったことを考えると、コタキナバル日本人墓地の無名日本人十数人の相当数が当時当地で無念の最期を遂げた“からゆきさん”であると考えて間違いないであろう。
ゲストハウスのバルコニーから夕陽を眺めながら、一世紀以上昔の日本の薄幸の少女たちの短い人生に想いを馳せた。
⇒以上 第10回に続く
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