海南華僑レオン氏86歳のファミリーヒストリー
ガヤ通り周辺で1930年代のボルネオ島コタキナバル(通称KK)の生活を鮮明に記憶しているお年寄りを探し歩いていたところ、数人からレオン氏の名前が挙がった。
レオン氏は“悦昌”という食堂兼カフェの3代目オーナー。“悦昌”に出向くと息子の4代目オーナー氏が「最近体調を崩して寝ています。体調が良い日は朝食の時間帯にお店に出てくることもある」と教えてくれた。それから毎朝散歩の途中“悦昌”に立ち寄ったが、会えない。レオン氏の奥様によると「最近は足腰だけでなく記憶も曖昧でお役に立てるかどうか。あまり期待しないでくださいね」とのこと。
1週間くらい経過した11月27日、レオン老人についに面会できた。ミルクコーヒーを飲みながらレオン氏から英語・標準中国語(普通語)のチャンポンで話を聞いた。レオン氏は1930年生まれの86歳。話すほどに昔の記憶が鮮明に蘇り、話し方も生き生きしてくる。
レオン氏は中国名“梁居簡”。先祖の出身地は海南省文昌県。初代は130年前(1886年)に渡航。ゴム農園で働いて金を貯めて、KKの対岸にあるガヤ島(Pulau Gaya)でパン製造を開業。レオン氏の父の代にジェッセルトン(KKの旧称)に移り、現在のガヤ通りにパン製造兼カフェを開業。
ジェッセルトン第一国民学校での皇民教育
レオン氏は1936年、KKの中華小学校入学。1942年に日本軍が進駐して中華小学校と中華中学校は第一国民学校に改組された。ちなみにマレー系児童の通う学校は第二国民学校に改組されたという。(注)国民学校は小学校6年、高等小学校2年とし義務教育年限を8年とした日本の戦時教育体制。ボルネオでも日本軍の軍政下で同様の教育制度を敷いた模様。
第一国民学校では校長と軍人教官だけが日本人で、日本語の授業も日本語が堪能な中国人教師が担当。レオン少年は1942年から約2年間、“大日本ハナシコトバ”を学んだ。テンノーヘイカ(天皇陛下)、コーキョヨーハイ(皇居遥拝)、キミガヨ(君が代)、キョーツケー(気を付け)など現代の小学生にはあまり馴染みのないニホンゴが次から次へと口をついて出てくる。そのあと「キーミーガーアーヨーワ♪・・・」と“君が代”を独唱。“君が代”暗唱は必須であったので必死で覚えたという。
戦前戦中に海外の国民学校で学んだ外国のお年寄りの日本語の歌を聞くと、複雑な気持ちになる。おそらく日本人へのサービス精神から歌ってくれるのであろう。しかし私には、彼らは“子供時代の郷愁”と“占領した日本人に強制された学習”という二つの相反する思いを歌声に込めているように思えてならない。
40年前に訪れたニューギニアの村では40歳くらいのオバサンたちが「モシモシカメヨー、カメサンヨー♪・・・」と歌ってくれた。3年前の韓国自転車旅では90歳の老人が「ココワー、オクニヲナンビャクリー・・・♪」と軍歌を歌ってくれたし、2年前のインドネシアのスマトラ島の田舎の公衆温泉浴場では80歳くらいの老人が「ミヨ、ヒンガシノー、ソラアケテー・・・♪」と行進曲を歌ってくれた。
日本の軍人教官と兵隊と市井の日本人
レオン少年にとり、国民学校に派遣された軍人は生涯忘れられない悪夢であった。軍人は粗雑で、毎日「バカヤロー」「コノヤロー」と叫んで、児童に“往復ビンタ”を喰らわせた。レオン氏は今でも当時の悔しさが蘇ってくるようで、聞いている筆者も恐縮してしまった。
さらに街で出会う日本兵も少しでも気に入らないことがあると、「バカヤロー」「コノヤロー」と罵声を発しながら現地の人間を殴りつけていたという。
戦後日本を占領した進駐軍のアメリカ兵がチョコレートやキャンデーを子供たちにバラまいて、宣撫工作の成果を挙げたことを考えると雲泥の差である。
1930年代のジェッセルトン(KKの旧称)のチャイナタウンには、日本人が数家族居住していた。レオン氏の記憶に残っているのは、警察署近くに住んでいたジュージン(酒井)と悦昌号の斜め向かいに住んでいたホンシャン(横山)の二家族。
酒井さんは小間物の行商人で、子供たちに飴玉をあげたりして温和な人柄であった。他方で横山氏は乱暴者で酒を飲んでは暴れていた。家族との食事中に“卓袱台返し”(turn over the table)をするのを何度か見たという。
遥か南洋の島にまで来て、今や昭和の伝説となった大技“卓袱台返し”を聞くとは思わなかった。