2024年11月22日(金)

幕末の若きサムライが見た中国

2018年4月28日

太平天国は自滅するも、外国勢力に牛耳られ衰弱する清国

 太平天国は当初は明朝の再興を掲げ破竹の勢いであった。だが時の経過と共に勢いは失せ、「現今ニハ專ラ天主敎ヲ奉ジ愚民ヲ服セシメ、不從者ハコレヲ誅殺シ賊徒ヲ集メ駿夫ヲ捕ヘコレヲ兵勇ニ充テ、タゞ亂暴狼藉ヲナスノミト云ヘリ。コレ全ク賊中ノ將戰死シ或ハ降シヨリ、法令モ自ラ邪道ニ墜チタルナリ」――

 当初は異民族である満州族の清朝を撃ち倒し、漢民族の明朝を再興しようなどと“大義”を掲げていたが、今では天主教を前面に押し出し、かき集めた愚民を俄か兵士に仕立てる体たらく。指揮官は戦死し、あるいは投降し、もはや軍律は守られず乱暴狼藉の限りを尽くす盗人集団に成り果ててしまった。にもかかわらず掃討できないのは、「タゞコレ清朝ノ衰弱シテ暴臣政ヲ取ルヲ以テナリ」だからだ。政治改革を断行し国内に「仁政」を施せば、軍隊を動かさずとも太平天国軍は直ちに滅びるだろうと、納富は考える。だが当時の清朝政権に「仁政」は求め難かった。

 ほどなく太平天国は幹部間の内紛が表面化し瓦解するが、問題は清国である。納富は、国家運営の根幹である財政・軍事権を英国や仏国など外国勢力に握られていることが清国衰亡の根本原因だと考えた。

 先ずは財政だが、アヘン戦争に敗れた結果、清国は英国との間で南京条約を結び、上海・寧波・福州・厦門・広州の南部沿海の主要5港の開港を余儀なくされた。かくて「萬國ノ商客」が蝟集し、上海はアジア最大の貿易港へと大変貌を遂げ、税関収入も莫大なものとなった。だが「洋商」は「柔弱ナル」清国役人などバカにして命令に従わない。密輸・脱税など日常茶飯事だったに違いない。そこで英国人に代行を依頼したものの、都合が悪いことに第2次アヘン戦争(=アロー戦争。1856年~60年)で清国は再び「英軍ニ打負ケ」てしまい、莫大な賠償金を支払わざるをえない。だが国家財政は火の車である。そこで上海港で徴する莫大な税関収入を差し出す羽目に陥ってしまった。つまり上海が賑わい貿易取引が増加したところで、清国の国家財政を潤すことはないわけだ。

 次は軍事。納富は仲間のなかの「或ヒトノ話」から説き起こす。その「或ヒト」が上海の「徘徊」を終えて宿舎に戻ろうとしたが、刻限を過ぎていたので城門は閉じられ「往來ヲ絶ス」。ところが日本人であることを知った城門守備の仏兵が、わざわざ城門を開けてくれた。すると「土人等コレニ乗ジ通ラント」したが、ダメだった。ちょうどその時、清国役人が輿に乗ってやって来て、仏兵の制止を振り切って城門を通過しようとしたが、「佛人怒リテ持チタル杖ニテ速撃シ、遂ニコレヲ退キ回ラシメ」たのである。

 日本人は特例。清国人は役人も含め、自らの国土に在りながら他国の兵士の指図を受けざるを得ない。当時、上海をぐるりと囲んだ城壁には7つの城門があり、それらを英仏2国の兵士が守備し、朝晩5時を刻限に開閉していた。かくて「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」となる。

 上海港の税収はそのまま英国女王陛下の懐を潤し、街の防衛・治安は英仏両国に委ねたまま。これでは納富ならずとも「嗚呼清國ノ衰弱コゝニ至ル、歎ズベキコトニアラズヤ」といいたくもなるだろう。

「愚民」を籠絡するキリスト教の役割とは

 西欧による籠絡の手法の1つにキリスト教の伝道を挙げる。「耶蘇堂」を築き、「愚民」に「先ズ多クノ金銀ヲ與へ」る。「故ニ愚民等ハ宗法ノ善惡ヲ論ゼズ」、キリスト教に靡いてしまう。また病院を建設して「愚民」に医療を施す。「藥劑等」も「上帝」からの施しであり、病気治癒もまた「上帝ノ救助シ玉フ」ところだと思い込ませる。かくて「ソノ教遂ニ天下ニ盛ンナリ」ということになって、民族精神は徐々に蝕まれるという始末である。

 財政権と防衛権は他国に握られ、精神は侵されるがまま。清国の惨状を目の当たりにした納富は、風雲急を告げる幕末の日本に戻って行った。

  
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