幕末の若きサムライが見た中国

2018年4月28日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

アヘンの本当の恐ろしさに気づいた日本の若き侍

 ある日、上海を管轄する役所を訪問した。自らが目にした役所内の様子を、「ソノ情躰甚ダ賤シ。又禮儀ヲ知ラズ。見苦シキ下僕ト見ユルモ、主客ノ座ヲ憚カラズ立騒ギ見物ス。或ハ應接アル所ノ後障ヨリ數十人窺ヒ見ル。又我輩ノ傍ニ來リテハ、衣服ヲ撫デソノ品價ナドヲ評シ、或ハ草履ヲ取ツテソノ製ノ異ナルヲ笑フ。最モ珍奇トスルハ刀釼ナリ。頻リニコレヲ看ンコトヲ請フ。許サゞレバ窃カニ取ツテ抜カントス。ソノ形様ノ野鄙ナルコト云ワンカタナシ。コノ後到ルコト兩三度ニモ成レバ、庭前ニハ古キ衣服ヲ晒シ、廊下ニハ多クノ便桶ヲスエ置ケリ。更ニ掃除セシテイモナシ」と綴る。

 上司が日本からの賓客を接待している厳粛であるべき場面を、「後障(ついたて)」の影から鈴なりになって覗いている。汚い手で裃を撫で、武士の魂である刀を触りまくり、抜いてみようとさえする者もいるほど。役所の庭には着古した衣服が干され、廊下には便器が並び、掃除された様子がみられない。綱紀は弛緩するに任せている。納富が呆れ返ったのも肯ける。

 さらに続ける。「既ニ歸リ去ラントスルトキニハ、盤上ニ餘リシ菓子ナドヲ盗ミ、或ハ殘酒ヲ取ツテ飲ムモアリ。實ニ犬猫ニ異ラズ」。武器はハリボテ状態でナマクラそのもの。兵士を眺めるに、「ソノ狀殆ンド狐狸ノ行裝ノゴトシト。官府ノ困窮コレヲ以テ知ルベキナリ」。語るに落ちたとは、こういう状態を指すに違いない。

 下っ端とはいえ役人の惨状は、そのまま民間にも及ぶ。その最たるものがアヘンだ。

「清人云フ、鴉片烟ソノ味ヒ甚ダ美ナリ。然レドモソノ害ノ甚シキハ人命ニ及ブ」。そして「コレヲ吃スレバ一月ニシテ癊必ズ生ズ」。つまり1ヶ月もすれば必ず中毒になる。だが体調不良や気分が優れない時にアヘンを吸えば「精神頓ニ明發ス」るから吸わないわけにはいかない。

 千歳丸が雇った水路案内人は30歳ばかり。英語もできて収入も多いらしい。尋ねると、父母妻子なし。博打もしないし、「女色飲酒ニモフケル」わけではない。高収入であるはずが、ボロを纏ったような水路案内人は「我他事ヲ欲セズ、嗜ムトコロハ唯阿片煙ノミナリ。故ニ得ルトコロノ金多シト雖ドモ、コレガ爲ニ不足ナリト云フ」のであった。ここまで聞いても日本人の誰もが信じない。アヘンの値段が高いといっても、財布がスッカラカンになるほどのことはないだろう、というわけだ。

 すると「須臾ニシテコノ者我輩ノ所ニ來リ、美ナル箱ヨリ阿片烟ノ具ヲ出シ、平臥シテコレヲ吃スルコト凡ソ半刻。皆コレヲ奇トシ傍ニ依テ見物ス。然ルニソノ烟座ニ滿チソノ臭モ亦惡ムベシ」。納富ら一同は面白そうに眺めていたが、アヘン煙が放つ悪臭に誰もが耐えられなくなる。そこで「コレヲ静止スレドモ更ニ耳ニ通ゼズ。眸神蕩ケテ眠ルガゴトクナリケレバ、ソノ久シクシテ過チアランコトヲ恐レ」た。一同の内の誰かが怒りを露わに刀の柄に手を掛け、「キサマ、黙っておけばいい気になりおって」とでも大声で怒鳴ったのか。水路案内人は「アハタゞシクソノ具ヲ収メ出デサリヌ」というわけだ。

 かねてから納富は、清朝の「官軍屢々敗レ」る原因は戦場でもアヘンを吸うからだ。「眸神蕩ケテ眠ルガゴトクナリケレバ」、敵軍の接近も判らない。予め定まった吸引時間になれば、戦闘を中断してしまう、と聞いていたが半信半疑だった。ところが「今コノ者ノナスヲ見テ」、やっと納得できたという。かくて「憐レムベク又戒ムべキニアラズヤ」となる。

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