置かれた場所で道を極める
農口は、酒造りの道に進んだ16歳の自分を、「なりたくてなったわけじゃない」と振り返る。祖父と父が杜氏だったとはいえ、酒蔵に泊まり込むので祖父も父も家にはいない。3代目といっても、その仕事に触れることは全くなかったのだ。
「戦後、新制中学校になって最初の卒業生で、戦時中は学校では軍事訓練ばっかりで勉強しとらん。ほかにやることがなかった。いとこたちは高校行って公務員になって、取り残されているような気になっていたのよ。でも何年目かな、自分にはもうこれしかないんやなと覚悟を決めた。よーし、やってやろうって」
好きで選んだ道ではなくても、自分にはこの道しかないのなら、好きになってやる。そしてその道を極めてやる。そう決意した瞬間が、現在の農口につながる、まさにターニングポイント。そこから仕事への姿勢が一変したという。
「いい酒ができたと思っても、漠然と仕事をしていたんでは頭に残らん。なぜいい酒ができたのか。時間や温度や割合や、細かいことは覚えておられんもん。だから、数字や数値化できるものはすべて記録しておかないといけん」
杜氏室の机には、ボロボロになったものから真新しいものまで、「製造控」と書かれた大学ノートが積み上げられている。毎年1冊、農口の歴史を刻んだノートには、28項目にわたってびっしりと数字が書き込まれている。秒単位、コンマ何パーセントまで、数字にとことんこだわる。でも最後の決断は、長年自らの記憶の中に培ってきたカンがものをいう。それがうまくいった時、農口の口から「よっしゃ」という力強い呟きがもれるのである。
東海地方での11年の修業を経て故郷の石川県に戻った農口は、菊姫合資会社の杜氏として迎えられている。1961年、27歳。異例の若さでの抜擢だったという。自信を持って臨んだ最初の年、狙い通りの淡麗な酒ができた。が、評判は散々だった。
「ショックでした。本当に辛かったね。こんな水みたいな酒飲めるかって言われてね。いい酒だと思っても、実際に酒を飲んでくれる人に好まれなかったってことや。つくづく酒は自分の思いだけで造るべきじゃないと悟りましたね。お客さんの口に合わせる、求めに応えるのが仕事なんだと」
酒蔵の責任者である杜氏が試行錯誤しながら毎年違う酒を造っていては、蔵への信頼に関わる一大事だ。そんな立場にあってなお、農口は旨みの強いしっかりした味わいの酒を求めて、当時は消えかかっていた山廃仕込みの酒造りを学びに丹波の酒蔵に3年も通った。それでも菊姫の社長、柳辰雄は、農口を守り通した。
とにかくいい酒を造れという柳の期待と厚い信頼に何としても応えたい。来年飲む人は何を求めるのか、この先、どんな酒が求められるのかを考える。その姿勢は、今に合わせるのではなく先を見据えて新しい挑戦を続ける原動力にもなったようで、その後も食と共に楽しむ食中酒への時代の変化をいち早くつかんで、吟醸、大吟醸の名酒を世に送り出している。