農口は、「黙って俺について来い」という頑固なタイプではない。人の意見を求める。若い蔵人たちにも「どっちが好みか」と尋ねる。杜氏1年目の大ショックだけでなく、農口自身が酒を飲めない体質なのだ。だから、自分の酒を飲んでくれた人の意見を聞く。全神経を集中させて、喉(のど)を通った時の反応を見る。農口の酒をふるまう会合などにも自ら顔を出して、全員に酌をして回ることもあるという。
「ワシは、アルコール分解酵素がないんだね。利き酒はするけど、ちょっと飲むと真っ赤になって目が回る。だからお客さんの舌や喉を借りて、意見や反応を頼りに、どこをどう変えたらその声に応えられるのかということばかり考えてここまで続けてきたんです」
そんな農口の思いが溶け込んだ新酒をテイスティングルームで試飲させてもらう至福の時。やっぱりうまい。口の中に米の旨みがしっかり広がるのに、喉を通る時にはキレを感じる。だから飲むほどにまた飲みたくなって、つい手が猪口(ちょこ)に伸びる。その様子を、お茶を飲みながら農口が見守っている。
「最初にここに来た時は、階段をやっと上っていたけど、今はスイスイやからね。ワシ、皺(しわ)ないでしょ。麹の美容効果だな」
半年の厳しい時を共にした蔵人たちとのチームワークも醸成され、集まると笑い声が絶えない。飲んだ瞬間に思わず「おいしい」と声がもれ、ため息が出るような酒を一生かかって造りたいという農口からは、若者顔負けのパワーがみなぎっていた。
のぐち なおひこ◉1932年、石川県生まれ。16歳で酒造りの道に入る。東海地方での修業を経て、61年、石川県白山市の酒造会社の杜氏に。2006年には現代の名工に認定される。15年に引退したが17年に現場復帰、新たに設立された「農口尚彦研究所」で杜氏を務める。
石塚定人=写真
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