諫めても戒めても「悪癖」は直りそうもない
同じく1955年に出版された『五個杏子(5個のアンズ)』(寇徳璋 少年児童出版社)は、人民に服務することと正直の大切さを教えようとしている。
ある夏の夕暮時、半袖の開襟シャツに半ズボンの王徳生クンが、淡い水色のワンピースに真っ白な前掛けをした妹の手を引いて学校に向かって息を切らせて走っている。王クンの頭は坊ちゃん刈りで妹の頭には長く延びた2本のおさげ。2人共、こざっぱりしたソックスにスニーカー。つつましやかな家庭で、規則正しく伸び伸びと育てられている風情だ。
学校から帰り近所の友達と遊んでいて、王クンは宿題を思い出した。そこで慌てて家に引き返し宿題をはじめようとしたが、筆箱がないことに気づいた。「しまった。学校に忘れたんだ」。兄が家を飛び出すと、そこに妹が。学校に行くといっても、おやつでも買いに行くんだろうと信用しない妹は、兄についてきた。校門が閉まる前に学校に着かねばと焦る兄は妹の手を引っ張る。懸命に走ったことで、妹は喉が渇いた。そこに「酸っぱくて甘い杏だよ」と物売りの声。
「兄ちゃん、杏の菓子を買ってよ」
妹思いの王クンはポケットに手を突っ込むが、「しまった、おカネは鞄の中だ」。しゃがみ込んで駄々をこねる妹を、「家に帰ったら買ってやるから」となだめて一目散に学校へ。
教室に飛び込みまっすぐ自分の机に。あった、筆箱があった。筆箱を手に校庭に飛び出すと妹がいない。妹は校庭の隅の杏の木の下にいた。
「兄ちゃん、あれ取って。わたし喉が渇いちゃったの。食べたい、食べたい」
それは生徒全員で育てている杏の木だった。みんなのもの、つまり公共財産だ。「妹のためとはいえ、それを取ることは公財私用の罪だ。ボクは地主や資本家のように利己主義者にはなれない」と王クンは煩悶するが、幸いなことに誰も見ていない。そこで5個の杏を取って妹に。喜ぶ妹。些か大袈裟だが、悩みは深い王クンだった。
翌日の休み時間。みんなで校庭でサッカーだ。王クンはゴールキーパー。杏の木の下に置かれたゴールを守りながら、杏の実が気になって仕方がない。友達が「おい、王クン。何かあったの。杏の木ばっかり眺めているけど」「別に……」
教室に戻ると先生が、「みんなが水をやったり、害虫を駆除したりして一生懸命に育てたから、今年は豊作で240個も杏を収穫することができました。このクラスの生徒は40人ですから、1人何個になりますか」。すかさず「240÷40=6だから、1人6個」の声。
先生が6個ずつ渡そうとすると、王クンが前に進み出て先生の横に立ち、級友に向かって昨日のことを包み隠さず正直に話した。すると、
「自分の利己心じゃなくて妹のことを思えばこそだ。王クンは悪くないよ」
「違うよ。妹にも話して判らせるべきだった。『公共財産』を私的に取っちゃあダメだよ」
最後に先生が、「妹のためといいますが、やはり王クンには公共財産を守るという自覚が欠けていました。妹に教える努力を怠りました。こういった点はよくありません。ですが王クンには素晴しい点があります。それは自分の間違いを正直に話し、それを認め、自分から改めようとすることです。これこそ立派な心掛けです。王クンが犯した過ちを認めたこと。正しくありませんか」。すると教室は「そうだ、そうだ」の大合唱に包まれる。
このように子供の頃から公共財産の私的流用は不正であることを厳しく教えたはずだが、「虎もハエも一網打尽」の大号令で習近平政権が始めた不正摘発によって暴かれた幹部たちの不正蓄財の額――最多は胡錦濤政権(2002年~12年)で最高権力集団のチャイナ・ナイン(共産党中央政治局常務委員)の一角を占めた周永康の1兆数千億円という天文学的規模――を考えると、どうやら『五個杏子』の教育効果は当初の期待ほどではなかったわけだ。諫めても戒めても公財私用(=公の財産を私する)という悪癖は直りそうにない。ならば、それは子々孫々と受け継がれる民族のDNAとしか考えられないのだが。