2023年2月5日(日)

WEDGE REPORT

2018年6月16日

»著者プロフィール

育み続ける野球への恒心

 3月29日の開幕戦メンバー入りを目指し急ピッチの調整中に起きた不測の事態。足に不安をかかえる状態での出来事だっただけに、相手に怒りを覚えても驚きはない。だが、それとは反転した姿勢をイチローは示した。なぜなのか――。

 ここにひも解きに通じる言葉がある。

 14年前の5月21日、タイガース戦で日米通算2000本安打を達成したその試合後の会見だった。日本での実績が大リーグ挑戦への自信となったのかを問われ、イチローは喝破した。

 「実績があったから自信があったわけではないですね。どうやって実績を作り上げたかです。そこに自信があったから僕は自信を持って打席に立ちました。数字だけでは自信をつけることはできないので。どうやってそこに至ったかですね」

 かつて「試合では打ちたい球は来ない。好きな球を待っていては終わってしまいます」とも言った。投手との厳しい勝負を重ねることで自信をつかみ打撃技術を磨いてきた。外角球に巧みにバットを合わせ、剛球を負けずに弾き返す。時には内角に食い込む球にバットをへし折られ、駆け引きに読み負けして凡打に終わる……。互いの試練を嬉々として享受できる関係なくして成長はあり得ない。「実績をどうやって作ったか」には、そんな思いがにじみ出る。 

 一つの死球をめぐった美談――。ただそれは投手と打者の勝負における自家薬籠中の話柄を超えて、野球という競技そのものへの変わらぬ愛情と発展を願うイチローの思慮の深さが流露された逸話になったのである。

打撃練習の合間に(筆者撮影)

いくつかの変化

 周囲に自分の感情を悟られないようプレーしてきたイチローが、2年前の大リーグ通算3000本安打を達成した会見で「感情を少しだけ見せられたらいいなと思います」と話している。以前を思うと、想像もつかない言葉だ。

 野球への思いも取り組む姿勢も変わらないイチローに、これまでにはなかった変化があった。

 4月7日、敵地ミネソタは凍てつく寒さだった。午後1時過ぎから始まったツインズとのデーゲームは、開場9年目のターゲット・フィールドで最も気温の低い中での試合となった。ユニホームのズボンの下にスポーツ用の黒いタイツをはいて臨んだイチローは、8番左翼で先発出場し2安打を放つ。1得点を記録して勝利に貢献したその試合後だった。マイナス9度の体感気温を聞かされると、躊躇することなく言い放った。

 「野球をやる気候ではないわね」
 
 10年ほど前だったか、低温下でのある日の試合が思い浮かんだ――。気温の低い悪条件がプレーに影響を及ぼしたかという問いかけに、イチローは敏感に反応する。

 「僕たちは魚じゃない」

 変温動物を引き合いに出し、体の動きが天候によって左右されないという主張にスパイスを利かせたイチロー流の表現だった。

 感情の表出はまだある。オープン戦3試合目の初回の守備で痛めた右ふくらはぎについてイチローが話したのは意外だった。「筋肉が(収縮して)ぐってなっている感じ。ボールが飛んで来ないことをひたすら祈ってました」。かつては自打球をすねに当て腫れあがっていた患部を目の当たりにした記者に水を向けられると「(プレーを)やれているんだから聞くまでもないでしょ」と突き放すようにして囲みの輪を解いたこともあった。

 変化の一端は走塁にも表われた。

 ここ数年、イチローの健脚に触れる記事が多く散見される。一塁までの平均到達時間を挙げて衰え知らずの足に「驚愕」の見出しが躍ることもしばしばある。

 先述の厳寒ミネソタでのこと。4月5日の同一カード初戦は終盤から小雪が舞った。寒さがピークに達した八回の第4打席でイチローは投手へのゴロを放つ。打球はマウンドの傾斜部に当たり角度を変えて二塁方向へと転がった。結果はわずかに及ばずアウト。手動での計測ながら、この時の一塁到達を「3.88秒」とする記事に目が留まった。

 球場内に設置された特殊なビデオカメラで選手の動きを数値化する「Statcast」が、リーグ5位の記録としたイチローの一塁平均到達時間「3.98秒」を公にしたのは2015年のこと。手動とはいえ、44歳のイチローが出したタイムは加齢とは無縁の健脚を証明する好材料である。しかし、その一方でこんな側面が影を落とし始めた。

 今季最後の出場となった5月2日のアスレチックス戦の八回、3打席目に立ったイチローが初球から仕掛けた打球は一、二塁間へのゴロ。捕球した二塁手が体を回転させて送球の体勢を整えるほど難しい位置へと転がったが、イチローはベース手前で失速した。

 ここ数年でベースを駆け抜ける勢いが、どんな打球でも一定していた過去とは違う実感がある。
 
 6年ぶりに古巣マリナーズに復帰したイチローがまぶしいほどの輝きを放っていた01年当時、ストップウォッチを手にしたスカウト達が一塁到達時間を「3.65~3.75秒」と口にしていたのを思い出す。あの頃、イチローは試合に出場し続け、体力が消耗する夏場の連戦で正面を突く強烈なゴロでもスピードを緩めることなくベースを駆け抜けていた。

 9年前のこと。時のドン・ワカマツ監督がイチローの野球に対する取り組み方に感銘し「50歳でもプレーできる」と太鼓判を押すと、伝え聞いたイチローが走塁に関して静かに言った。

 「それなりに衰えていたい」

 一塁まで4秒を切れば「俊足」と括られるその走塁で、ノーチャンスな凡打でも最後まで疾走の度を緩めず野手を慌てさせる脚力と強い意志が織りなす執念のタぺストリーがほころび出したと捉えるのは、穿ち過ぎだろうか。

 もう一つの実相がある。

 イチローがヒットを打つたびに、数字を入れ替えてきた手製のボード「イチメーター」で今やその名を広くファンに知らしめているのがエイミー・フランツさん。3月29日の開幕戦では新調したボードで人目を引いていた。

マット・ウォルコット氏(筆者撮影)

 セーフコ・フィールドで脚光を浴びる彼女とは対照的に、舞台裏でひっそりとイチローの打球の行方を気にかけているのがマット・ウォルコット氏(51)だ。三塁側ダグアウト横の通路途中を奥へ入ると審判控室がある。そこで毎試合前に12ダースもの新球に特別な土を塗り込むのがウォルコット氏の仕事の一つだ。

 新球の表皮は油分が多く滑りやすい。その対策としてデラウエア川のある特定の場所からしか採取できない通称“魔法の泥”と呼ばれる『レナ・ブラックバーン・ラビング・マッド』を手のひらに薄く広げ、ボールを手際よくこねるウォルコット氏。彼いわく「イチローが復帰することを知った時は鳥肌が立った」。しかし、その喜びもつかの間、ある不安がよぎったそうだ。

 「試合の終盤になるといつも気にしていたのがボールの補充です。イチローが沢山のファールを放っていたからですよ」

 誇張を匂わす笑み交じりの言葉ではあったが、復帰前のマリナーズ時代のイチローは相手の厳しい球を何度もファールで凌ぎファンの溜息を誘っていた打席が多くあった。

 今季、本拠地でイチローが打席に立ったのは27度(8試合)あり、放ったファールの数は計12球だった。過去と比較するにはサンプル不足であり、またそれらが打ち損じたものか、なんとか当てて望みをつなぐものかは到底判別できない。ただ、ウォルコット氏が抱いた不安は杞憂に終わったことは確かであった。

編集部おすすめの関連記事

新着記事

»もっと見る