得たものではなく、与えたもので
近い将来に米野球の殿堂入りが確実視されるイチローが、その布石を敷いたのは大リーグ史上誰も成し得なかった10年連続の年間200安打の偉業である。この間、数字を意識しないと公言して臨んだシーズンもあったが、記録が途切れた11年は「記録は後から付いてくるという感覚は持ちたくない。しっかり結果を追い求めて追いかけそうしたい」という意識で公式戦を迎えている。
3月7日の古巣復帰会見では記録と戦ってきた過去の心情を「自分のことだけしか考えられなかった」と吐露。結果を出さないと消えていくという呪縛に縛られていたと、その背景にも触れていたが、愛してやまないマリナーズへの恩返しへとイチローは穏やかな秀徹の意識で着地している。
万雷の拍手で迎えられた3月29日の開幕戦後、イチローはしみじみと言った。「この先はシアトルを離れたくないという気持ちになる」。また地元ファンだけには留まらず、他チームの選手からもマリナーズ復帰を喜ぶ声が響いていた。中でもいち早くカブスのダルビッシュが反応している。
ダルビッシュは古巣復帰が正式に発表になる数日前に、自身のツイッターでイチローのマリナーズ契約を望むメッセージを上げたが、実はこんな秘話があった。
イチローが明かす。
「あの時僕はまだ神戸にいたんですよ。まだ身体検査もあるから決まったわけじゃないからねってきちっと言ったんですけどねぇ。だけど、あいつが先走っちゃって……」
ダルビッシュからのショートメッセージに釘を刺していたと言う。発表前日の6日、キャンプ地のアリゾナ州メサでダルビッシュ本人に聞くと「マリナーズのユニホームが一番似合う気がするんですよ」と話し、「リーグが違って今季はないけど、それはもちろん」と再戦に意欲を示した。
惜しみないアドバイスに感謝の念を抱き続けるのはシンシナティ・レッズの好打者ジョーイ・ボットだ。昨年の夏、イチローが以前に好んで食していたチェーン店のピザを背番号の「51」箱分もロッカーの前に届けるジョークで話題を振りまいたが、対戦前のフィールドではアドバイスを求める真摯な姿が見慣れた光景になっている。
5月の終わり。快投を続ける平野が所属するダイヤモンドバックス戦でアリゾナに来たボットにイチローの存在を改めて聞いてみた。
「技術的なことを求めたことはほとんどないけど、準備については多くのヒントをもらった。その中で、道具に対する扱い方にも深い意味があることを知ったんだ」
実際、3連戦のクラブハウスでボットの姿を見つけるのは至難で、試合前の開放時間内には1度もつかまえられず、最終戦の試合後に移動のバスに向かう直前での取材となった。それも、徹底した準備を映してのことだ。
余談だが、イメージから美食家だと思い込んでいたイチローの好物がピザだったと知った時、ボットは「親近感が一気にわいた」と笑みを浮かべた。
イチローが感じた「最も幸せな2カ月」の描破を試みる中で、筆者はこんな格言を拾い出した。かのアインシュタインが残している。
「人の価値とはその人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」
仰ぎ見れば蒼天――。春から続いた寒さも和らぎシアトルにも初夏の気配が漂い出した6月、調子を上げるマリナーズは13日の試合で勝利し、11年ぶりに貯金20を記録。これまでとは違った形でチームの躍進に一役買っているイチローは、改めて野球に接する喜びを噛みしめる日々を享受している。
44歳で挑んだ大リーグ18年目に遭遇した「最も幸せな2カ月」は、開陳された心の来歴と前のめりに走り続けてきた轍とが交錯し、等身大のイチローを照らし出す。
来季のプレーを目指すイチローに、満腔の思いは尽きない。
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