人間性は自己の手前にある
文学は長らく個人の内面を表現することでした。近代文学は特にそうでした。しかし、内面というのも、結局自己に帰属するわけですし、これがデータ化されるとAIの方が人間よりもうまく小説を書けるでしょう。アルファ碁が人間の棋士を超えるようなことが文学にも起こる可能性があります。ですから未来の書店には人間文学のとなりにAI文学の棚が並ぶかもしれません。このような時代がシンギュラリティだと思います。自己がなし得ることは全てAIによって成し遂げられるだろう。自己がAIによって超えられるてしまう時、シンギュラリティが起こったと考えています。
しかし、本来の人間性は自己の手前にあると思います。認知症の人が見ず知らずの人にお金を渡すことがあります。これは詐欺ですが、視点を変えれば万民に対する施しであるわけです。誰にでも心を許してしまう。これは隣人愛とか友愛という言葉で実現しようとしてきたものでもあります。自己の手前にこのような未知の領域がある。それがあるから、自分より大切な人に出会う。子供が生まれた時にそんな気持ちになります。
随分前のことですが山手線新大久保駅でプラットホームから落ちた男性を助けようとして、線路に飛び降りた韓国人留学生と日本人のカメラマンが命を落とすという事故がありました。見ず知らずの人を助けるために自分の命を落としてしまう。冷静な認知能力を発揮すれば、このような美談はおこらないはずです。自己の手前に誰でもがこうした気持ちを持っているんだと思います。誰もが絶対的な善なる種子を持っていて、それが何かのきっかけでインフレーションをおこして表に出てくる。テロや戦乱、能力主義とか格差社会の中で、自己を犠牲にして他人を助けるという奇跡的なこと。それは特別な人がおこなうのではなく、たまたまそこに居合わせた人がおこなった行為であり、万人がおこなっており、僕らは毎日、少しずつ奇跡を体験しているのかもしれません。
聖書の中でイエスが様々な奇跡をおこしますが、それらの奇跡は70数億人いる全人類がおこせる可能性を持っているのだと思います。それがあるからこそキリスト教は2000年以上続いているのだと思います。スマホが2000年使われると思えません、我々の中には1000年、2000年では変わらないものがあって、それは善良なものだと思います。それを言葉によって具現化するのが私の仕事ですが。
AIに出来ないことに気付くこと
シンギュラリティがもたらすことで、最も大きな事が、自己が行えることはわずかしかないことを気付かせてくれる。ゲノム編集で個のパフォーマンスをいくら上げても、たちまちAIによって凌駕されてしまいます。いくらAIが進歩しても、みんなスマホに没頭して自分を閉じてしまう。人間はどんどん空虚になっていくのではないか。人間が幸せになるための要素は、我々の中にあるのになぜそれに目を向けないのだろうか。
我々がシンギュラリティに期待するのは、AIが人間に代わってやれることが分かってくると、人間に何が残っているのかを考える契機になるし、そこから本来の人間が始まるのではないかと思っています。それが人間創成としてのシンギュラリティであるというタイトルでお話しをいたしました。
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