2024年12月20日(金)

青山学院大学シンギュラリティ研究所 講演会

2018年8月11日

2019年ブレードランナーの世界の訪れ

 青山学院大学シンギュラリティ研究所の設立を記念した講演会の内容を、6回にわたり掲載していく。第6回は「人間創生としてのシンギュラリティ」と題して、作家の片山恭一氏が7月4日に講演した内容を紹介する。 

1959年愛媛県生まれ。九州大学農学部卒後、大学院(農業経済学)に進む。1986年「気配」で『文學界』新人賞を受賞。2001年『世界の中心で、愛をさけぶ』を刊行。300万部突破し大ベストセラーとなる。近況としては2016年からシンギュラリティの旅を始める。福岡県在住。(写真・Naonori Kohira)

 この講演が始まる前に、楽屋で四方山話をしていました。その時に300年前の世界と300年後の世界、どちらに行くのがいいかという話題になりました。300年前には戻りたくないけど、300年後も不安だなという人がいました。その時、僕の頭によぎったのが、「ブレードランナー」の世界です。この映画を見るまで私の想像する未来は、ドラえもんの世界観でした。それが1982年に「ブレードランナー」を見てからはリドリー・スコット監督が描いた酸性雨の降りしきる暗いL.A.の情景が頭をよぎります。あの映画がトラウマになって、僕の未来観は変わってしまいました。

 シンギュラリティ到来が2045年だとすると、我々はシンギュラリティに向けて何をすればいいのか。全く未知の世界が訪れると思うんですね。例えば「CRISPR-Cas9」という遺伝子編集技術があります。これは生命科学におけるスマホのようなもので、低コストで使いやすく、今まで研究所で何年もかかっていたような研究が、高校生が自宅で数日で出来るようになるほど強力なツールらしいのです。それによって人間が全生物のゲノムを自由に書き換えられるようになるので、生命の進化を制御することが可能になるそうです。

 このようにやれることに関しては、かなりいろいろな情報があります。では永遠の生命と健康を手に入れたら、いったい何をやりたいのか。また仮想通貨などに投資して短期間に巨額のお金が得られるシステムができていますが、それでお金を手にしたら、一体何に使うのか。世界中の大金持ちをみても寄付ぐらいしかない。やっていることは数百年前から変わっていません。キリスト教社会の頃からずっとおこなわれてきたことです。今ある世界が適者生存、能力主義、弱肉強食であって、これがエスカレートした社会に100年も生きていて楽しいかどうか。私は楽しいとは思えないんですね。

 何ができるか、どうなっていくかを予想するのもいいですが、人間の良い部分、善なる部分をどう可視化していくのかも重要だと思います。僕は小説家なのでそれを文章で表現したいんです。数千年、数万年単位で培われてきた人間の変わらない部分、それが善なるもの、絶対的な善だと思います。それがあるために戦争を続けてきた人間が、未だに滅びずに続いているのではないかと思います。

仏像も高齢化する社会

 最初に仏像の話をいたします。最近、奈良に行く機会が多いのですが、東大寺、興福寺、薬師寺でもいいのですが、そこで拝見する仏像は風雪に耐えて、色褪せて、剥げ欠けて、当時の姿を保てていないと思います。半年前にたまたま新薬師寺を訪れたときにビデオが公開されていました。そこに写し出されていたのは十二神将をCGを使って復活した建立当時の仏像の姿です。僕が見たのは伐折羅大将(ばさら)ですが、非常に艶やかで極彩色の仏像になっていました。そうすると天平時代の人々は元々、極彩色の仏を拝んでいたことになります。その他の仏には毘羯羅大将(びぎゃら)とか頞儞羅大将(あにら)とかウルトラ怪獣のような名前ですが、そうやって彼等はずっと1200年ぐらい1つのポーズで立っているんですね。それを見た時に彼等にも青春時代があったんだなと思いました。

 今の姿、十二神将の高齢化した姿だったんです。彼等の世界は超高齢化時代で、老化というよりは劣化、剥落、崩壊の危機に晒されているわけですね。そんな中で今日も明日も変わらず佇んでおられる訳ですね。そういった仏様を我々は尊いものとして、別に教えられた訳でもないのに拝んでいるわけですね。誰でも自然にそういった気持ちになりますね。それは文化なのかもしれませんが、外国の方も頭を垂れているので、貧富、老若男女を問わず自然とそういう気持ちがわき上がってくるのかもしれませんね。

 仏像の中には腕が取れたり、頭が取れたりしたものもあり破損仏と言われるそうです。今で言えば重度の身体障害者のようなものですが、そういった仏像もやはり五体満足な仏と同じように、あるいはもっと尊いものとして存在感を持って我々を見ていてくれているように思えます。我々の中に腕や頭が取れて色が剥げた1000年を経た仏像をありがたいと思う感覚があることが分かります。これは劣化や剥落によって仏像としての個が失われて、より普遍的な存在になっていくのだと思います。

 そう考えると私たちは老いをネガティブに考えすぎているのかもしれません。人が老いるということは普遍性に近付いていくことになり、誰でも老いによって個人のパフォーマンスが衰えていく訳であって、それを超えたものが人間にとっての普遍、または大切なものだと思います。劣化した仏像によってこれが可視化され、我々がそれを拝むようになったのだと思います。

個を超えて出現する美しさとは

 福井県に知人がいまして、今年の3月にあそびに行ったのですが、彼はちょうどインドから帰国したところで、ガンジス川で沢山の写真を撮っていました。それを見せてもらったのですが、どの写真を見ても、みんないい顔しているんですね。思わず見入ってしまうような人たちです。彼等を見ていると奈良の大仏を思い出すんです。その佇まいとか風貌が奈良の大仏を思わせます。何か美しい、力強さを感じてしまいます。

 物乞いをしている人たちなので、個人としてのパフォーマンスは低いと思います。老婆にしてみても若い頃は美人だったのかもしれませんが、いまは劣化して剥落している訳で、その手の魅力ではないと思います。老人のしわだらけの顔がいいと感じることがあり、死期を悟った人々の深みのある表情、重度の脳性麻痺の患者にも美しさを感じることがあります。美しいと表現しましたが、美しいという言葉で何を表現しているのだろう。その人の表情、仕草などの固有さ、取り替えの利かない、その人が生きてきた時間が内包されているのだろ思います。それに対して美しいという言葉を使いたくなるんだと思います。

 何千年も佇んできた仏像に対して感じる個は、自己というかセルフというか、個人の能力を超えたところから醸し出される美しさだと思うんです。それにもかかわらずその人の中に残っているものを美しいという言葉ですくい取ろうとしているんだと思います。人間にとって一番大切なものは人間の持つ能力は、個人としての能力を超えたところ、自己の手前にあると思います。おそらくやわらかいもの、豊かなもの、善良なものだと思います。それらを尊いもの、美しいものと表現しているんだと思います。


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