児童書で読み解く習近平の頭の中

2018年8月8日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

仲間を救うために爆死した若き兵士の日記

 同じ1965年には、児童書を読む世代よりもう少し高い年齢層を読者対象とした『王杰日記』が、文革の前半期、毛沢東の忠実な部下として文革を推し進めた林彪が率いていた人民解放軍の機関紙『解放軍報』の編輯部から出版されている。

 この日記を記した王杰(1942年~65年)は山東省出身の解放軍兵士である。入隊は61年で済南部隊装甲兵工兵連(中隊)班長。62年、共産主義青年団に加入。65年7月、民兵訓練中に爆弾が暴発しようとした際、現場にいた12人全員を救うべく爆弾に覆いかぶさり爆死。自己犠牲の模範として全国的に讃えられ、死後に党員として追認された。遺品の中から63年に書きはじめた10万字を超える日記が見つかり、主だった部分を抜粋し、この本が編まれている。そこで興味深い個所を拾ってみた。

■63年(日付なし)=「俺はレッキとした革命者であり、革命のための優秀な種となろう。党と国家から遣わされるなら、何処にでもいって根を張り、花を咲かせ、実を結んでみせるぞ。必ずや砂漠を緑の長城に、荒れ果てた山をたわわに稔る果樹園に、田を一面の黄金色の大地にしてみせるぞ」

■63年4月22日=「王杰よ、王杰、お前に警告しておこう。任務を遂行する際には、誠心誠意で言行一致、裏表なく苦労を厭わず、生真面目に取り組め。王杰よ、深く心に刻んでおけ。自らの欠点をしっかりと自覚し、断固として改め、虚心に学び、生真面目な人間にならんことを」

■63年8月21日=「旨いものを食べ、キレイな衣装を身に着けるなんてことは幸福でもなんでもない。貧苦に喘いでいる世界中の虐げられた人々が平穏な生活を送れるようになってこそ幸福といえるのだ」

■64年7月25日=「毛主席の著作学習は長期的視点から着目しなければならないし一生の大事だ。林彪同志が指し示す『問題意識を持って学び、活学活用し、実際の問題に結びつけ、先ず学び本質を掴め』の原則を生真面目に徹底して貫かねばならない」

■64年9月3日=「毛主席の著作学習を通じ、革命こそが我が理想であり、闘争こそが本当の幸福であることを身に沁みて学んだ」

 『王杰日記』は「新しい中国の次世代を見よ! 彼らは重い任務を担うことができる。彼らには祖国の建設と防衛ができるはずだ」で結ばれている。

社会主義教育運動を経て、時代は「文革」へ

 ここで改めて1965年前後の毛沢東の動きを振り返ってみる。

 1964年8月、エスカレートするヴェトナム戦争に米軍の中国侵攻の可能性を読み取り、同時に北方から軍事圧力を強めるソ連を警戒し、毛沢東は南北からの敵を想定した戦争準備を提起する。10月に初の核実験に成功し、翌65年1月になると毛沢東は初めて「党内の資本主義への道を歩む実権派」に言及した。「実権派」、つまりは毛沢東を蔑ろにする政権中枢、就中その頭目たる劉少奇に戦いの的を絞ったということだ。だが劉少奇が毛沢東の狙いに気づいたフシはみられない。

 9月になって本格化するアメリカの北ヴェトナム爆撃(北爆)に対抗するかのように、林彪が「人民戦争勝利万歳」と題する論文を発表し、劉少奇派が提起した解放軍の近代化とソ連を含む反米統一戦線結成の動きを牽制した。毛沢東の軍事思想に従い、解放軍は断固として人民戦争路線を歩むべし、というのだ。11月、後に四人組の一員として名を馳せる姚文元が「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し文革の導火線に火を点けた。

 翌66年8月、毛沢東と林彪は全国から百万人の紅衛兵を天安門広場に集め気勢を上げ、文革の戦端が開かれたのである。

 1953年生まれの習近平にとっては社会主義教育運動の3年間は、9歳から12歳に当たる。習近平9歳の年、父親の習仲勲は毛沢東の逆鱗に触れ失脚。12歳の年には毛沢東の指示で洛陽鉱山の機械工場へ“島流し”となる。実質的な労働改造処分であった。

  
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