英語教育にも「毛沢東賛歌」
『夜航石頭沙』と前後して上海出版社からは、文革工作に挺身する小学生が、蔣介石一派の秘密工作員で元教師の破壊工作を摘発し毛沢東派を守った『英雄機智的紅小兵』、毛沢東思想で武装し、自然災害を克服し豊かな収穫をもたらした人民公社の英雄を描く『胸懐朝陽戦冰雹』、毛沢東の訓えのままに「一に苦労を恐れず、二に死を恐れず」に革命精神を発揮して多くの人々を救った人民解放軍兵士を讃える『優秀共産党員――陳波』、さらに旧社会では教育の機会すら与えられなかった港湾労働者の宋懐宇が、毛沢東思想学習をキッカケに英語を学び、やがて海外からやってくる外国船員に英語で毛沢東思想の意義や文革の理想を語るに至るまでの『宋師傅学外語』などが出版されている。
どれもこれも定型化された毛沢東賛歌であり、いわば紋切り型の結論ではあるが、『宋師傅学外語』を読んでいて興味を持ったのは、当時、実際にはどのような英語教育が行われていたのかといった点だ。そこで『簡明英語語法』(湖北省中小学教学教材研究室編 湖北人民出版社 1973年)のページを繰ってみた。
同書は書名で判るように英語文法解説書だが、出版時期からいって単なる文法解説書で終わってはいない。徹底して毛沢東賛歌である。目に着いた例文を紹介しておくと、
・Chairman Mao is our great teacher.(毛主席は我われの偉大な導き手である)
・Down with the landlord class!(地主階級を打倒せよ)
・Imperialism,revisionism and all reactionaries are paper tigers.(帝国主義、修正主義と一切の反動派は張子の虎である)
・Only socialism can save China.(社会主義のみが中国を救う)
・China will never be a superpower.(中国は断固として大国にはならない)
このように激烈な例文が次々に記されているが、最終的には「The sea is deep,but our love for Chairman Mao is deeper than the sea.(海は深い。我われの毛主席に対する熱愛は海よりも深い)」に収斂していく。かくして外国語学習であれ、一瞬たりとも毛沢東思想から離れることはなかったわけだ。
なぜ、「99%の火傷」を負っても完治可能なのか?
最後に文革期を代表する子供向けの百貨全書とでもいうべき『十万個為什麼』(上海人民出版社 1970年)を紹介しておくのも、当時の子供たちを取り巻く時代状況を知るうえで意味あることだろう。
これは全部で13冊という大部のシリーズで、出版し終わるまでに4年ほどの歳月が過ぎている。第1巻の出版が1970年9月で最終13巻が74年7月である。この間の重要な動きを拾ってみると、毛沢東と林彪の対立顕在化(70年)、林彪のナゾの逃亡とモンゴルでの墜落死(71年)、林彪事件総括の第10回党大会(73年)、四人組台頭と批林批孔運動(74年)。まさに文革後半の激動期を通じて出版されたことになる。それだけに編集者も執筆者も作業途中で方針や内容を変更せざるをえない立場に立たされ、大いに戸惑ったに違いない。
書名は『十万個のナゼ』となっているが、「十万個」は沢山という意味である。第1巻冒頭の「ナゼ、我われは10進法を使うのか」からはじまり第13巻最後の「ナゼ、勝手にツバを吐くのはダメなのか」まで、各巻に主に自然科学関連の100から130前後の「ナゼ」が挙げられ、その回答がイラスト入りで判り易く解説されている。
このシリーズ初版の出版は、大躍進失敗から毛沢東の権威が後退し、どん底経済立て直しに辣腕を揮ったことで国民間に劉少奇への期待が高まった時期の1962年である。ここで取り上げる上海人民出版社版の『十万個為什麼』は62年版の改訂版に当たるが、劉少奇が毛沢東の敵として国民的糾弾の標的となり抹殺された後であり、政治状況が大逆転してしまった以上、さすがに初版をそのまま印刷するわけにはいかなかったはずだ。
その辺りの事情を各巻冒頭に掲げられた「重版説明」は、「これまで叛徒・内奸・工賊の劉少奇の反革命修正主義文芸の黒い方針とその影響下にあったことで、多くの誤りが存在し、マルクス主義・レーニン主義・毛沢東思想を積極的に広めないだけではなく、(中略)知識万能を宣揚し、趣味性を追及し、封建・資本・修正主義の毒素を撒き散らす内容の書籍が少なからず横行していた。偉大なるプロレタリア文化大革命の過程で広範な労働者・農民・兵士と紅衛兵の小将軍は、それら書籍の持つ誤りを厳格に批判し、修正主義文芸の黒い方針と黒い方針による出版がもたらす害毒を徹底して粛清した」とする。
なにが「害毒」で、内容をどのように「徹底して粛清した」のか判然とはしない。たとえば「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」の項目をみると、「資本主義国家の医学の“権威”は、火傷の面積が体の表面積の85%を超えた場合、死亡率は100%だと結論づける」が、「1958年に毛主席が定めた『意欲を奮い立たせ、先頭に立つよう努め、より多く、より早く、より立派に、より倹約して社会主義を建設せよ』との耀ける総路線の下、工農業生産の大躍進の高まりに鼓舞され、我国の医学関係者はこの迷信を打破し、大胆に実践し、80%以上の火傷患者を救うことに成功した。偉大なる文化大革命の過程で(中略)99%の火傷を負った患者、さらには3度の火傷で94%という広い面積の火傷を負った患者を治癒することに成功し、資本主義国家の“権威”の定説と文献上の記載を完全に乗り越え、世界医学界における奇跡を創造」と記すのみである。これでは、「ナゼ、90%以上の火傷でも完治可能であるのか?」の疑問に対する科学的な回答ではないだろうに。
因みに13巻の最後――ということは『十万個のナゼ』の最後の「ナゼ」は「ナゼ、どこにでも唾を吐いてはダメなのか」。病原菌を撒き散らすから「僅かな唾でも被害は甚大だ。だから、辺りかまわずに唾を吐くといったような悪い習慣は絶対に改めねばならない」で終わっている。「悪い習慣は絶対に改めねばならない」とは、なんとも“意味シン”な回答だと思う。
「政権は鉄砲から生まれる」と、毛沢東は革命における「搶扞子(武力)」の重要性を強調する。だが「筆扞子(メディア)」の働きを忘れていたわけではない。いや、むしろ時には筆扞子に重きを置いていた。文革はその典型だろう。人民解放軍(=搶扞子)を掌握して劉少奇追い落としに成功して後、「未来の大人」であり「小さな大人」である子供に向けて、いよいよメディア(=筆扞子)戦略は巧妙に激烈に展開されることになる。
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